2017/9/25-30

2017/9/25(月) 担当 高谷清師 ヨハネ5:41-44 賛美 新聖歌 339
 主は「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」と語られる。自分の名によって来るもの、世から出て世の権威によって来るものを世は認め、受け入れ、喝采し、誉を帰するのである。世に属する者は神のことばを理解できないからである。パウロが「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(?コリ2:14-15)と述べているとおりである。「み言葉を語る」という人々のなかにも、聖書の一部を用い、美辞麗句をもって飾り立て、自分を語り、栄誉を求める人々がある。私たちは謙虚に、聖霊の導きを求め、吟味し真理を判断することが大切である。

2017/9/26(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書9:22-23  賛美 新聖歌280
 民が誇りとすべきものは何かを語っている。1コリント1:31と210:17で「誇る者は主を誇れ」として、この箇所から引用されているので、身近に感じるエレミヤ書の言葉である。私たちはそれぞれ何かしら拠り所をもって生きている。現代社会において一般的に多くの人々が拠り所とするのは社会的地位、権力、財産などであろう。エレミヤはここで知恵、権力、財産といったものを成功欲の基盤や目的とし、これらに依り頼むことを厳しく批判した。つまり自分自身を偶像化し、美化し、自分に頼ることを厳しく批判している。では何を誇るのか。目覚めて主を知ることを誇るのである。なぜなら私たちが誇りとしやすい自分の地位や権力や財産、知恵や正義は神から来るものだからである。
 神は神ご自身を拠り所とし、従う人々を喜んでくださる。この約束と恵みをしっかり心に留めよう。

2017/9/27(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 5:41-44  賛美 新聖歌 428
 主は「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」と語られる。この箇所についてジークフリート・シュルツは「不信仰の本来の原因は、人間の自己中心性と栄誉欲とにある。互いに相手を称賛し合うことによって安心であるかのように錯覚しているのが、まさに不信仰である。」(NTD新約聖書註解ヨハネによる福音書P192 NTD新約聖書註解刊行会1972)と述べている。日本のプロテスタント教会も宣教開始から150年余の年月を重ね、組織もある程度整ってきたことは感謝である。しかしそこで懸念される新たな問題は、指導者たちが神からの誉よりも人からの誉を求め、人の歓心を買おうとして神をないがしろにすることである。主は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタ 6:24)と教えておられる。人は神と世とに仕えることはできないのである。

2017/9/28(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書9:24-25  賛美 新聖歌275
 力と富と知恵と同様に、割礼もイスラエルの民が特別な神の選びの民だという自覚の礎とし、また救いの拠り所としていたものであった。しかし神は身体的に施された割礼は、救いと特別な神の民としての地位を保証するものにはならないと言われる。イスラエル以外でも割礼は広く行われていた。それでもイスラエルにとって、割礼はアブラハム時代以来、彼らが神の民であるというしるしであった。しかしエレミヤの時代の民にとってもはやそれは神の裁きを逃れる保証にはならないと告げられた。神が求められる割礼は身体に施されたしるしではなく、神に対する民の心のあり方、すなわち信仰であり、神に従う従順であった。
 神に従うとは、クリスチャンとしての習慣を持ち、それを守るという「形式」ではない。それは神に信頼し、神に従うという生き方であり、その生き方の源にある、神を愛し、神に信頼するという信仰である。

2017/9/29(金) 担当 高谷清師  詩編34:16-23 賛美 新聖歌 247
 「主に従う人には災いが重なる」のである。しかし主は「従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。」のであり、「助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。」のであり、「打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」のであり、重なる災いのすべてから救い出してくださり、「骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。」のである。主イエスは終末の時の出来事について「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」(ルカ 21:16-19)と教えておられる。また裁きの座に着いたピラトが「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」(ヨハ 19:10)と語ったのに対し主は「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」(ヨハ 19:11)と答えておられる。信じる者を神から引き離し、滅ぼすことの出来る者は世には存在しない。

2017/9/30(土)担当 高谷由紀子師 創18:20-33 賛美 新聖歌 284
 ソドムとゴモラの罪は非常に重い故、主はそれを滅ぼそうとしておられました。このことを知らされたアブラハムはソドムとゴモラのために祈りました。「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」と。これに対して主は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」と言われました。続いてアブラハムは「45人のために」「その四十人のために」・・・・・「十人のために」、主は「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」と。アブラハムは主の前に必死でソドムとゴモラのために執り成しの祈りを献げ、主はその祈りを聞き入れてくださいました。ヤコブは「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」(ヤコ 5:15-16)と述べています。信仰をもって執り成しの祈りを献げる者となりましょう。”,,743″