2017/10/2-7

2017/10/2(月) 担当 高谷清師 ヨハネ5: 45-47 賛美 新聖歌 239
 イエスは「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。」と語られる。それはユダヤ人たちが、モーセを正しく信じなかったからである。モーセはイエスについて書いたのである。ヘブル人への手紙は「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。」(ヘブ 10:1)と述べ、更に「ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」(ヘブ 10:8-10)と述べている。モーセは罪を告発し、キリストはその血によって罪を清め、信じる者を義とされるのである。

2017/10/3(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書10:1-5  賛美 新聖歌302
 エレミヤはここで偶像礼拝を厳しく批判する。同じような警告がイザヤ40:19-20、41:6-7、44:9-、46:46:5-、申命記4:28など、多くの箇所に見られる。ここでは特に異国の民が自然現象を見て魔術的な力を感じて恐れているときにそれに束縛されるな、多くの人々が信じている偶像は実は人の手で細工されたモノに過ぎないと言う。人間は目に見える物に頼ろうとする傾向がある。実際に形あるものを見せられ、これに頼れと言われると、分かりやすく安心しやすい。古今東西どこにでも人の手で造った像を神として信頼している。エレミヤが言うように、冷静になって考えればあらゆる偶像は人間の手が作ったものであり、日常生活で使う実用品と何も違わないことはみんな理解できる。それにもかかわらず偶像は大きな誘惑となる。
 クリスチャンであってもいつもの間にか、様々な物を偶像化して、そこに頼ってしまっていないだろうか。これらには「力がない」ことを改めて確認したい。

2017/10/4(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 5: 45-47  賛美 聖歌 196
 ユダヤ人たちはモーセを通して与えられた律法を誇りとし、その一点一画までも実行することによって神に喜ばれる者となることが出来ると信じていた。そのため彼らは自分の能力のすべてを注いで律法を学んだ。しかし彼らは律法の真意、神の御心を知るには至らなかった。即ち、律法が指し示す救い主を認識するには至らなかった。ぺトロは「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(?ペテ1:20-21)と述べている。またパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(?テモ 3: 16)と述べている。これらのことから、聖書は神の霊感を受けて書かれた書物であり、聖霊の光の下で読まれるべきであるということである。聖霊の臨在を求めつつ、み言葉に親しもう。

2017/10/5(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書10:6-11  賛美 新聖歌179
 預言者の言葉は「偶像に頼るな」だけでは終わらない。続いて何に頼るべきかを明示している。諸国民の王である王、主に頼れと勧める。神はほかに比べる者がないほど力がある。偶像のような無知、愚かさ、無用さには無縁である。人の手で造られたものではない。主はすべてを永遠に支配なさるお方であり、滅びゆく偶像とは違って天と地を造られた神である。
 日本のことわざに「鰯の頭も信心から」とある。鰯の頭のようなつまらないものでも、信仰すれば大変尊いものに見えることから、信仰心の不思議さをたとえたことわざである。しかし聖書が語る創造者である神を信じる信仰はこれとは本質的に異なる。聖書が『頼れ』と言う時、それは確かに力ある神、信じる者を裏切ることのない神に頼れと述べるのである。いつの間にか私たちが信じるものが真の創造者なる神からほかのものに置き換わらないよう、日々み言葉と照らして信仰を確認しながら歩もう。

2017/10/6(金) 担当 高谷清師  詩編34:16-23 賛美 新聖歌 343
 ダビデは「主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は罪に定められることがない。」と詠う。神との深い交わりの内にあってダビデに示された贖いの恵みが歌われているのである。パウロは「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」(?コリ2:6-10)と述べている。私たちの救いは、主を避けどころとする信仰によるのである。

2017/10/7(土)担当 高谷由紀子師 使 2:44-47 賛美 新聖歌 137
 ここには初代教会の姿が描かれています。彼らは神の愛に満たされ、私心を離れ、互いの必要を満たし合い、一つとされて喜びに満たされ、その口からは賛美があふれていました。このような姿は、民衆全体から好意を寄せられ、神によって救われる人々が起こされ、教会に加えられ、教会は成長していきました。教会成長の原動力は聖徒たちの一致であり、それは一人一人が神の愛に満たされるところから生まれるのです。終末の迫る時代にあって、魂の救いのため、神の愛に満たされ、互いの一致が与えられ、神の栄光が顕されるよう、歩んでまいりましょう。”,,748″