2019/8/19-24



2019/8/19(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 聖歌 273

 

 イエスは「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」と語られる。パウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(?コリ2:14-16)と述べている。ジョン・C・ライルは「聖霊の内住が邪悪な者と敬虔な者とを分ける本当のポイントなのである。多くの偽の信仰告白者や回心していない人々がキリストの御名を受け入れ、キリストについて語るのであるが、彼らは、聖霊のお働きについては何も体験的に知らないのである。(ライル福音書講解ヨハネ3聖書図書刊行会1987)P369」と述べている。真のイエスの民、真のキリスト者とは、救いについて、聖霊について、キリスト教神学について理路整然と語ることが出来るだけの人ではない。信仰によって自らを明け渡し、聖霊を受け入れ、神の命に生きる人である。

 

 

 

2019/8/20(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:13-15  賛美 新聖歌354

 

 ヤコブについて人間的な弱さに注目して語られる。ヤコブの信仰について、ここでは一切語っていない。ヤコブは自分の求めた妻を得るために僕として働いた。それに対して神様の御業は一人のモーセという預言者を通して奴隷の地、エジプトから民を解放するということであった。ヤコブが自分の願いを守ろうとしたのに対して神は民全体を見守り、導かれた。ホセアにとってイスラエルの歴史はこのモーセを通した出エジプトから始まる。歴史の最初から民を導いてこられたのは神ご自身であり、人間の自己中心な欲求から出る業とは対照的である。そして歴史の初めにおいてだけではなく、ホセアの時代にも民は神の導きに背き続けた故に主の裁きを受ける。

 

 ホセアのメッセージは一貫している。神の導きを無視して自分の欲を通すための自分の方法を貫くならば、そこに与えられるのは裁きである。自己中心ではなく、神を中心として生きよう。

 

 

 

2019/8/21(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:18-20 賛美 新聖歌 38

 

 イエスは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」と語られる。この後、イエスは弟子たちを離れ、十字架につき、死んで葬られ、世から去って行かれる。しかし、三日目に死から復活される。復活された主は度々ご自身を弟子たちに顕されるが、世に顕されたことは記されていない。十字架の死以来、世はイエスを見ていない。しかし弟子たちはイエスを見、イエスに会い、イエスは聖霊によって弟子たちの内におられ、弟子たちはその聖霊によって生かされているのである。

 

 私たちは今、みなしごではない。目には見えないが、聖霊は今日も私たちの内に居てくださるのである。霊の目を開いて聖霊に従って歩もう。

 

 

 

2019/8/22(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書13:1-3  賛美 新聖歌299

 

 1-3節は神々と偶像礼拝について語っている。かつて神の祝福を受けてエフライムは尊敬されており、語る言葉は重みをもって受け止められた。しかし彼らは真の神から離れて偶像礼拝を選んだ。その時に祝福を失い、死の報いが宣言された。彼らをここに導いたのは偶像礼拝の罪であった。当時の最高の技術を用いてきらびやかな偶像を造った。もちろん彼らは偶像礼拝を禁じられていることを知っていたが、目の前に作り出されるきらびやかな像は魅力的で、力に満ちているように目に映る。まさに「有難み」を感じさせる。視覚に訴えるものは分かりやすく、頼りがいがありそうに見える。そして瞬く間に民は偶像礼拝に陥る。彼らの朝露のような頼りなさと移ろいやすさは罪に生きる人々の必然の姿である。

 

 あらゆる時代にあらゆるところで、神への信仰から人々を引き離そうとするきらびやかな誘惑が満ちている。しかし表面的なものに惑わされず、祈りとみ言葉にしっかりと根ざして常に神と共に歩もう。

 

 

 

2019/8/23(金) 担当 高谷清師  詩 46:9-10 賛美 新聖歌 280

 

 詩人は「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」」と詠う。ヒゼキヤ王の時代にアッシリアの王センナケリブはエルサレムに大軍を送った。しかしエルサレムにはこれに対抗する力も術もなかった。その時神は、夜、御使いを送りアッシリアの陣営で十八万五千人を撃たれた(列王記下1819章)。救いは人間の力ではなく、神に在る。それ故詩人は「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」と詠う。パウロは「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(?コリ12:9-10)と述べている。救いは自分の力ではなく、神にある。信仰に生きよう。

 

 

 

2019/8/24(土)担当 高谷由紀子師 マタ 18:1-5 賛美 新聖歌 394

 弟子たちがイエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねるとイエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と言われました。弟子たちは自分が偉い人になりたい、人に認められ、賞賛され、人よりも上になりたいと思っていました。しかし、イエスが教えられたのは頑張って功績を残して人に認められなさいということではありませんでした。逆に、子供のようになり、自分を低くするということでした。人は誰でも表面では謙遜に振舞っていても心の底には自分は偉いのだという思いが潜んでいます。しかし聖書は『「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。』(?ペテ5:5)と記しています。日々、神様の前にへりくだって従順に歩みましょう。