2012/8/27-9/1

 

2012/08/07(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8: 8-12  賛美 聖歌454
 新しい契約の第二は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ことである。士師記には「その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った(士 2:10)」と記されている。イスラエルはエジプトの国で奴隷として苦難の生活を強いられていた。神はイスラエル人の苦難のうめきと叫びを聞き、モーセを立ててイスラエルを奴隷の国から導き出された。その歩みの色々な局面において遭遇する危機に際し、神は超自然的な御業をもってイスラエルを守られた。同時に神は彼らにそのように神に仕え、礼拝し、日々生活をするべきかを示す律法を与えられた。そしてそれを子孫に教え、伝えることを命じられた。しかし神の超自然的な御業を体験した世代が世を去ると教えられた律法は単なる知識となってしまい、形式となり彼らの行動を支配するものではなくなった。主イエスによってもたらされる新しい契約は、信仰によって私たちの生活に生きて働くものである。主は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである(ヨハ 15:5)」と語っておられる。主を私の神とし、主の血潮によって罪赦された神の民として歩もう。
 

 

2012/08/28(火)担当 高谷満世師 サムエル記下6:1-11 賛美 聖歌544
 ダビデは全イスラエルの王となり、さらにペリシテ人との戦いにも勝利した。国内の状況が整ったときに、ダビデは神の箱を運び込むためにイスラエルの精鋭とともに出発した。しかしこの箱を運び込む最中に事件が起こった。この箱が倒れそうになったのをとっさに支えたウザが神に打たれて即座に死んだのである。神の箱を触ることができるのは特別に聖別された者だけであった。それ以外の者が触れるならば、それは神への冒涜と考えられた。もちろんウザが箱に触れたのは突発的な事故であった。それでも神は聖なる領域を侵すことを許されなかった。
 しばしば私たちは神が自分の願いを常に聞いてくださる、自分の思いと神の思いは常に一致しており、神は自分の願いを必ず満たしてくださると思い違いをしてしまう。しかし、神は神であって、人間の思いのままに操れるお方ではない。神を聖なる方として畏れる信仰を持とう。
 

 

2012/08/29 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12 賛美 新聖歌434
 新しい契約の第三は小さな者から大きな者に至るまで、彼らはすべて、わたしを知るようになることである。古い契約においては、民は神を礼拝するために神殿に犠牲の動物を引いて行き、祭司がその血を祭壇に注いで罪の贖いの儀式を行い、その後礼拝をおこなった。しかし新しい契約においては御子が私たちの罪の贖いのためにご自身をささげてくださった故に、その血潮によってすべての人が神に近づくことができるのである。
 

 

2012/08/30(木)担当 高谷満世師 サムエル記下6:12-23 賛美 聖歌480
 ウザが神に打たれるという出来事がありながらも、ついにダビデは神の箱をエルサレムに運びこむことができた。ダビデは喜び、主を賛美して裸になって踊った。このとき、ダビデは人が自分をどう見るかということにとらわれてはいなかった。ただただ神を賛美し神を喜んだ。しかしそのダビデを見たミカルはダビデを非難した。それに対してダビデは彼女自身が蔑んでいるダビデが神に選ばれ、サウルやその家をこそ神が選ばれなかったと語った。さらに、ミカルが見下しているはしためこそがミカル以上に本当の栄誉をわきまえていると語った。ダビデを蔑み、主をたたえることをしなかったミカルは結局ダビデの妻として子を産むこともなく、サウルの家はダビデを通してもイスラエルを治めることはなかった。
 主は主を恐れ敬う者を喜び、用いられる。主を侮る者は豊かに祝福されて用いられることはない。
 

 

2011/08/31(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12   賛美 聖歌525
 「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」と言われている。神が私たちの罪を赦して下さると言うことは、私たちが神に近づくための確固たる基礎である。また、「もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」と言われていることは赦しが完全であることをあらわしている。世においては、人が犯罪を犯すと刑罰が科される。その刑期を終えても、その犯した罪は前科として戸籍に記録され、生涯を通してその人に付きまとう。しかし新しい契約による赦しはその罪の記録をも消し去るのである。パウロは「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした(エペ 5:26-27)」と言っている。サタンが私たちの以前の罪をもちだして責める時も、主の赦しの完全さに立って確信をもって主の御前に歩もう。
 

 

2012/08/11(土)高谷由紀子師  列王記上 18:15 賛美 聖歌520
 エリヤは自分の信じている神を「万軍の主」、「生きておられる神」と確信し、体験した人でした。450人のバアルの預言者との闘いにおいて唯一人「わたしの仕えている万軍の主は生きておられます」と信仰告白をして勝利しました。
 ペトロもまた聖霊に導かれて「あなたはメシア、生ける神の子です(マタ 16:16)」と告白して主に喜ばれたように、わたしたちも御霊に従い主こそ生ける神の子、救い主であることを告白しつつ、勝利ある信仰生活を続けましょう。