2020/4/20-25

 2020/4/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ17:14 賛美 新聖歌 606

 イエスは「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。」と祈られる。イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハ15:16)と語られた。そして「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタ 5:11-12)と教えられた。主の弟子たちは自らがイエスを選んだのではなく、イエスによって選ばれ、御言葉を与えられ、信仰を与えられ、罪の世から救い出された者である。故に、もはや世に属しておらず、世は憎むのである。私たちは殊更世と敵対してはならないが、世の憎しみを恐れて妥協してはならない。与えられた御言葉を守り、信仰に留まろう。

 

2020/4/21(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書8:13-14  賛美 新聖歌148

 神のみ言葉の飢えと渇きの中、若者たちも渇きによって命の危機に瀕すると言われる。イスラエルの人々は神を礼拝していなかったのだろうか。14節にはダンやベエル・シェバの人々に対して「お前の神」「お前の愛する者」という少し不可解な言葉がある。彼らの神、彼らの愛する者は天地の造り主であり、エジプトから導き出した主ではなかったのか?彼らは神の選びの民として、主を礼拝していたが、同時に預言者たちが何度も警告しているように、イスラエルの中でも偶像礼拝を排除することは容易ではなかった。民からすれば、いつものように変わりなく神を信じて礼拝しているつもりであっても、知らずしらずのうちに入り込んだ偶像礼拝が生ける真の神への礼拝にすり替わっていたならば、やはり渇きから逃れることはできない。

 偶像礼拝はいつでもはっきりと分かり易い形で私たちの生活に入り込んでくるわけではない。思わぬところから水がしみこむように私たちの生活と心に浸潤してくる。常に目を覚まして、ただ真の神だけにつながり続けよう。

 

2020/4/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ17:15 賛美 新聖歌 434

 イエスは「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」と祈られる。この箇所についてジョン・C・ライルは「主の意味するところは次のようであると思われる。「世はあしき者、迫害する者ですが、わたしはあなたがわたしの弟子たちを、すぐに世から取り去るようにとは祈りません。そのように取り去ることは、弟子たちにとってよくないことであり、世にとっても悪いことなのです」と述べ、「ゲーアハルトは、使徒たちは福音の最初の説教者であり、世の光となるべきものとされていた、と述べている。「もし彼らが主の後に続いてすぐに世から取り去られていたとしたならば、世は暗闇の中に取り残されていたことであろう。さらに、十字架は信仰と忍耐を教える学校であり、世にとどまることなしには、彼らは優れた聖徒となり得なかったであろう。」(ライル福音書講解ヨハネ4聖書図書刊行会1988)P108109」と述べている。主に召される日まで、世にあってその使命を果たしていきたい。

 

2020/4/23(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:1-4  賛美 新聖歌200

 アモス書内で7章から8章冒頭へ続く第五番目の幻である。これまでとは違って神の裁きがあるかなしかということではなくなっている。神は確実に民を裁かれる。この幻は神殿の中での出来事として語られている。全ての者を神が確実に死に至らせると言われる。人々は必死でこの裁きから逃れようとする。陰府にまで下ればそこには神がおられないので裁きから逃れられるかと期待して必死で逃げ込んでも、神の裁きは及ぶ。高い山なら神の支配の及ばぬ領域になるかと逃げても、神はやはりそこにいる者を引き下ろす。

 アモスは一連の幻を通して民に裁きと滅びを告げるように整えられた。そして彼はほかの預言者同様に厳しい裁きを告げねばならなかった。どうして神はこれほどまでに怒り、愛する民を滅ぼされるのか。アモスの時代の信仰者のみならず、現代に生きる私たちにも問いかけられている。今一度神だけを礼拝し、神だけを神とし、正義と公正を行い、神を愛することを学びたい。

 

2020/4/24(金) 担当 高谷清師 詩 51:15  賛美 新聖歌 434

 ダビデは「わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。」と祈る。この箇所についてA. ヴァイザーは「信仰による新生はその本質上、神を喜びつつもそれによって自己満足しているような享楽的な自己本位の信仰にとどまらないのである。神が自分と歩まれた道を証ししようとする内的必然が、詩人をして罪人たちのところへと向かわせる。われわれはまさにこの点に、祈り手の神体験が純粋であると察することができる。それは彼が体験した赦しへの感謝以上のものであって、信仰の生命が自然に現れたものである。「わたしたちは見たり聞いたりしたことを、語らないでおこうとするわけにはいかない」(行四20.)。神がみわざをなすとき、それは個々人の体験にとどまらない。なぜなら、各自、自分が行くことを許された道にほかの人たちを連れて行くべき使者となるからである。詩人は罪人を神に帰らせることをもって、自分の新生の具体的使命と見なしている。こうしてこの世で神を尊び神に栄光を帰する器と目されていることが、彼を確かな行動目標をもった信仰の確信に至らせるのである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P81)と述べている。真の救いは証へと押し出す。それは救われた者に注がれた愛の発露である。

 

2020/4/25(土) 担当 高谷由紀子師 創 18:20-33 賛美 新聖歌 284

 ソドムとゴモラの罪は非常に重い故、主はそれを滅ぼそうとしておられました。そのことを知らされたアブラハムはソドムとゴモラの為に祈りました。「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」と。これに対して主は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」と言われました。続いてアブラハムは「五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」「四十人のために」「三十人しかいないかもしれません。」「二十人しかいないかもしれません。」「もしかすると、十人しかいないかもしれません。」と祈りました。それに対して主は「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」とお答えになりました。アブラハムは主の前に必死でソドムとゴモラの為に執り成しの祈りを献げ、その祈りは聞き入れられました。ヤコブは「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(ヤコ 5:15-16)」と述べています。信仰をもって執り成しの祈りを献げる者となりましょう。