2016/8/8-13

2016/8/8(月) 担当 高谷清師  ?ペテ4:12-14  賛美 新聖歌 339
 「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」と語ったぺトロは「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」と語る。主イエスは「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハ15:19)と語っておられる。キリスト者は世に生きているが世の者ではない。神に選ばれ、尊い御子の血潮によって贖われ、神の子とされた者である。世のものとは異質の存在である。それ故パウロは「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(?テモ3:12)と述べている。そして「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(ロマ8:18)と語る。キリスト者が忠実に生きようとするとき迫害は避けられない。しかし後に顕される栄光によってもたらされる喜びははるかに大きい。その時を望みつつ、今を、忍耐をもって忠実に歩もう。

2016/8/9(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書44:21-23 賛美 新聖歌170
 「思い起こせ」という呼びかけを聞いて当惑しないだろうか。43:18では「初めからのことを思い出すな」と語られたが、ここでは正反対のことが言われているようである。これら二つの呼びかけの背後にある重要なメッセージは、神の御業と御業をなしてくださった神をどのように思い起こすかが重要だという点である。今日の箇所では、イスラエルを創造し、歴史を通じて彼らを守り、導き、贖ったのはほかならぬ真の神であることを正しく知りなさいと言われている。真の神を正しく知るならば、人は感謝せずにはいられなくなる。賛美が自然に湧き上がってくるのである。その賛美は人間の口から発せられるだけではなく、しゃべることがない植物ですらも神をたたえ、さらには死者の世界と考えられる地の底すなわち陰府においてさえ賛美が湧き上がるという。これほど暗いところにさえ神の支配が及んでいるからである。
 神の業を一日の終わりに思い起こしているだろうか。一日の中で神の業を認め、神を認め、湧き上がる賛美と感謝をもってその日を閉じているだろうか。神を知ること、神の業を認識することが賛美の源である。

2016/8/10 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ4:12-14 賛美 新聖歌 135
 ぺトロは「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」と語っている。主イエスが天に帰られた後、弟子たちは世を恐れて息をひそめていた。しかし主は五旬節の日に約束の聖霊を注いでくださった。聖霊に満たされた弟子たちは恐れから解放され、大胆に福音を語った。聖霊は常に信じる者と共にあり、彼らが語る言葉をしるしと不思議をもって確証し、苦難から解放してくださった。聖霊は今日も私たちと共にあって、守り、導き、力を与え、御言葉の確かなことを証ししてくださるのである。常に聖霊に満たされ、御霊によってクリスチャン生涯を全うしょう。

2016/8/11(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書44:24-28 賛美 新聖歌411
 創造者である神を被造物が賛美した後で、創造者にして贖い主である神のことばが宣言される。神ご自身が偽りの言葉を語る者をしりぞけてさらに主の言葉を成就される。神の偉大な力を示される。そして神のご計画はユダの町を再建することである。ここでも創造者である神が自然に命じて従わせ、さらに捕囚時代にイスラエルの民を支配していたキュロスをも神ご自身が支配させ、神のご計画の成就のために用いられるという。敗北した町エルサレムの神は力のない神であると考えるのが常識的な当時の文化の真っただ中で、神はイスラエルの現状にかかわらずご自身が全世界の創造者であり支配者であるとして再建を宣言された。
 誰がこの敗北した民の神を力ある方として信じたであろうか。過去に大いなる業をなしてくださった神を認めることが新たな救いと将来の希望のメッセージを受け取る基盤である。

2016/8/12(金) 担当 高谷清師  詩編25:6−14  賛美 新聖歌 399
 ダビデはこれまで理不尽と思われる試練に遭遇しつつも常に真実な心をもって神に忠実に歩んできた。神もまたダビデと共に居てくださり、あらゆる危険から守り、常に勝利の道を歩ませてくださった。ダビデの心には自信があったであろう。しかし今回自身の内からの試練に直面した。外からの試練も苦しい。しかし、自身の内からの試練ほど苦しいものは無い。この事態に直面し内に目を向ける。振り返ると、常に神に真実に歩むことを求めてきたその歩みにも罪と背きを見出したダビデは「わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために主よ、わたしを御心に留めてください。」と祈る。深い神との交わりの中からダビデは告白する「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。その人は恵みに満たされて宿り/子孫は地を継ぐであろう。主を畏れる人に/主は契約の奥義を悟らせてくださる。」と。
 ヨハネもまた「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(?ヨハ1: 9)と述べている。神の慈しみと真実に全信頼を置き、どんな時にも主と共に歩もう。

2016/8/13(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 8:1-3 賛美 新聖歌438 
 ここに記されているとおり、主イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられていました。その宣教の旅には十二人の弟子たちや婦人たちが同行していました。彼女たちは信仰によって献身的に自分の持ち物を出し合って一行に奉仕し、主の宣教の働きを支えていました。彼女たちの働きは地味な陰の部分の働きでしたが、不可欠な働きでした。私たちも、与えられた働きが目立つ働きであっても目立たない働きであっても、心を込めて仕え、励む者になりましょう。”,,892″