2018/1/15-20

2018/1/15(月) 担当 高谷清師 ヨハネ ヨハ 6: 60-71 賛美 聖歌 501
 弟子たちの多くが離れ去って行くのを見てイエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われた。これに対してぺトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と言って、イエスに対する信仰告白を行っている。ぺトロの信仰告白の場面をマタイは「イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタ 16:15-17)と記している。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(?コリ 12: 3)と述べている。キリストを知り、信じることが出来るのもまた神の恵みによるのである。

2018/1/16(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書18:18-23  賛美 新聖歌320
 再度エレミヤに対する計略がめぐらされている。エレミヤに敵対する人々は明らかに彼の命を奪おうとしている。この状況においてエレミヤは自らこれらの敵対者の前に立って争ってはいない。彼は祈りの中で神に訴えている。神ご自身が敵対者たちの策略をご覧になり、御心に留めて彼らに裁きを下すようにと求めている。エレミヤが神に求めたのは策略をめぐらす者たちへの徹底的な裁きであった。十字架上で敵対者の赦しのために祈られた主イエスとは対照的である。エレミヤの姿は人間としての限界をも表している。少なくともエレミヤは敵対者たちに自分の手で報復するのではなく、全てをご存じであり、義なる神に裁きを委ねた。
 私たちも不当に私たちに敵対する人々、陥れる人々に出会うことがあるかも知れない。その時自分の手で報復するのではなく、義なる神がすべてを見て、適切な裁きをしてくださるように委ねよう。

2018/1/17(水) 担当 高谷清師 ヨハネ6: 6:60-71 賛美 新聖歌 201
 ぺトロの言葉を受けてイエスは「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」と言われる。イエスに選ばれ従っている、最もイエスに近い十二人の弟子たちの一人が悪魔であると言われるのである。その人は表面的には忠実を装っていても、その心がイエスから離れ、イエスに背いているのである。イエスは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハ15:7-9)と語られる。私たちが永遠の命を持つのは、教会に属していることによるのではない、いずれかの信仰団体に属しているからでもない、信仰によってキリストの内に居ることによるのである。

2018/1/18(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書19:1-15 賛美 新聖歌374
 神は壺を砕くという行為と砕かれた壺によって、イスラエルの民とその都を完全に砕くことを示された。神が民に与える裁きとは回復不可能なほど徹底的であると言われる。何故神はこれほどまでの裁きを与えられるのか。それは4節から5節に記されている。偶像礼拝、人身供犠など、神が命じず、語らず、心に思い浮かべることもなさらなかったほどの罪が原因であった。神が民に裁きを下されるとき、それは神が感情的に行動されているのではない。人々が神に背き、預言者を通して与えられる警告に耳を傾けず、悔い改めないことが度重なった結果である。
 まず私たちは神の命令を聞き分けて神に従う生き方をしなければならない。そして常に注意深く神の言葉―時には私たちが気付かずに犯している背信や罪を指摘して悔い改めを促す言葉―を聞き分け、砕かれた心をもって神に立ち帰って主と共に歩み続けていく絶え間ない日々の姿勢が求められる。

2018/1/19(金) 担当 高谷清師  詩編詩 36:6-7 賛美 新聖歌 18
 この箇所についてA. ヴァイザーは「神の恵みとまことと義の測り知れない大きさや広がりを描き出し讃美しようと試みる。もちろん常にそれは到達できない試みでしかありえないかもしれないが。無窮の天空と及びがたい雲の高みに至るまで全世界が神の「恵みとまこと」に満たされている(中略)。神の義は、太初このかた確固不動の山々に等しく、神の審きの秩序は天地創造以来かわらぬ海のように連綿として続いている。神の現実はあらゆる空間・時間を包摂し、世界とそのうちにある生きものにとって永続的かつ堅固な土台である。人であれ獣であれ、何ものも神の助けを欠くことはできない。世界に住むすべてのものが神の手から恵みを受けることによって生きている。」(A. ヴァイザーATD旧約聖書註解詩篇上P401−402 ATD・NTD聖書註解刊行会1983)と述べている。イザヤは「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。」(イザ 65:2)と述べている。パウロは「皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。」(使 17: 28)と述べている。神は反抗し罵る子供のためにあらゆる必要を備え、あらゆる敵の攻撃から守る父のようである。目覚めて御言葉に従おう。

2018/1/6(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:16-20 賛美 新聖歌 395
 ファリサイ派の人は他の人たちの生活を見て自分の方が彼らよりもいくらか正しいことを見て安心しています。隣の徴税人を見下げて「この徴税人のような者でもないことを感謝します。」と言っています。彼は神の御前でも自分中心にしか考えず、他人と比較して自分の方が正しいと見、自分を高くしています。ファリサイ派の人の祈りは自画自賛の独り言です。神様に対する祈りではありません。それとは対照的に、徴税人の祈りは神のみ前で自分を低くして神の憐れみを求める祈りです。かれは自分の罪を認めて悔い改めています。主は「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われます。”,,653″