2021/2/8-13

 2021/2/8(月) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:12 賛美 新聖歌 154

 ヨハネは「あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。」と記す。使徒信条は「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず」と詠っている。「聖徒の交わり」について山下萬里師は「第一に、それは共にいることを意味します。第二に、共にすること、参加することです。第三に、共に与ること、共有することです。(われ信ず一一現代に生きる使徒信条簡P258 株式会社ヨベル2001)と記しておられる。更に師は「ヨハネの手紙I一・三にこう書かれています。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。ここでは、私たちが見、かつ、聞いたことを伝えることは、私たちとの交わりを持つことで、私たちの交わりとは、御父と御子との交わりなのだ、というのです。換言すれば、御父・御子の交わりの中に私たちは加えられた。そして、御父・御子の交わりに加わることなしには、私たちの交わりは成立しない、ということを示しています。そして、このことは、私たちの交わりに与ることなしには、御父・御子との交わりにも与ることはない、ということを含んでいると言えましょう。」(同書P259)と述べておられる。クリスチャン生活において「聖徒の交わり」は極めて大切である。しかし今、コロナ禍によって大きな制約を受けている。「去る者は日日に疎し」という言葉があるが、日々、互いを覚えて祈り合うことにより交わりを密にし、乗り切って行こう。

 

2021/2/9(火) 担当 ラウジー満世師 ナホム書1:7-11  賛美 新聖歌267

 神は偉大な力を持っておられる。その力が人々を守るものとして顕される時があり、また同じ力が人に襲い掛かり、その人を滅ぼす力となることもある。神のこの偉大な力がどちらの力として顕されるのか、それは神の気まぐれによって決定されるのではない。ここに記されているように、神を認め、神に頼り、神を信じる者には主は守りを与えて下さる。しかし真の神の偉大な力を受け入れず、敵対する人々に対しては彼らを滅ぼす力として働く。つまり、神のどちらの働きを受けるかということは人々が神に対してどのように応答するかにかかっている。私たちがみ言葉を通して神について聞くとき、私の神として受け入れ、従う道を選ぶならば、神の守りを受ける。

 力ある神の御前に立ち、神に敵対する者となって滅びに至るか、あるいは神に従うものとして命を受けるかは私たち自身の決断にかかっている。命の源である神に背を向けることなく神の愛を受け、神を愛して従う者であり続けよう。

 

2021/2/10(水) 担当 高谷清師 Ⅱヨハ1:12-13 賛美 新聖歌

 前回でヨハネの手紙Ⅰを読み終えた。ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙Ⅰと、4年有余の期間に亘ってヨハネ文書を読んできたことになる。このヨハネ文書の最重要テーマは「愛」であった。「愛」はヨハネ文書のみならず、聖書の最重要テーマであり、キリスト教の最重要テーマである。それは文言ではなく、私たちの内にあって生きて働く命であることが求められる。それはイエスが「わたしにつながっていなさい」「わたしの愛にとどまりなさい。」と教えられたように、キリストにつながっていること、キリストの愛にとどまることによって与えられるものである。聖霊の豊かな働きにより、愛が私たちの内に満ち溢れるよう、祈ろう。

 

2020/2/11(木)担当 ラウジー満世師 ナホム書1:12-14  賛美 新聖歌170

 とても難しく、理解しにくい箇所である。力と数に勝る国でも切り倒されて消え失せる。またかつて苦しんでいた者が再びそのような経験をすることがない。また鎖を断ち切られて自由にされると語られ、将来にわたって子孫のことまで述べられている。そしてそれらすべてが成り行きでそのようになってしまうというのではなく、「わたしがそのようにする」と神の言葉として語られている。歴史の一時代においていかに強大な勢力を誇る国も、人も、人間である限りナホム書のこのみ言葉のように「わたしがそのようにする」ということはできない。神は時代を超えてご自分の計画を持ち、それを行い、支配されるお方である。

 時代を超えて力をもって働かれる神様が今も働いておられる。力ある神が共に歩んでくださっており、すべてのことに神の御心がなされることを知り、神に望みを置いて歩もう。

 

2021/2/12(金) 担当 高谷清師 詩 59:12-14  賛美 新聖歌 21

 詩人は「彼らを殺してしまわないでください」と祈る。それは民が、神を嘲り、傍若無人にふるまい、神を畏れ神に従う者たちを迫害する悪人どもが、口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に/自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に陥り、最終的な裁き、―御怒りによって絶やされ、ひとりも残らない―に至ることを知るためである。神は悪を必ず裁かれる。神が裁きを行われる時、それによって全地に神の栄光が顕され、世界は神の主権と権能を知ることになる。

 

2021/2/13(土) 担当 高谷清師 マタ 24:3-14 賛美 新聖歌 394

 イエスは終末の徴の一つに「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」と教えておられる。主イエスの愛と憐れみによって信仰を与えられ、救いの恵みに与って50有余年、いろいろな出来事があるにせよ、幸いな信仰生活を歩ませていただいた。その間、社会に目を向けると大きな変化を見る。救いに与った当時、神の愛は母の愛に譬えて語られることが多かった。それは無償の愛、自己犠牲の愛であった。しかし、最近はいろいろな事情はあるにせよ、自己の快楽のために子を死に至らせる母、自己保身のために子を虐待して死に至らせる母等々、神の愛を母の愛に譬えることをためらわせる報道が目に付く。キリスト者の間においても「愛」という言葉は語られるが、その中味は自己犠牲から自己充足へと変化をうかがわせることが見受けられるようになったように思われる。このような状況からこの50有余年、一貫して愛が冷えているように思われる。今こそ、十字架を仰ぎ、キリストの愛に満たされて行こう。