≪デボーションの友≫2023/5/8-13

2023/5/8(月) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:29-34  賛美 聖歌(総)643 聖歌 605

 この箇所においてパウロはもう一度14節以下に立ち帰り、議論を進める。29節では「死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。」と語っている。当時、コリントでは死人に代わって洗礼を受けるという風習が行われていた。この箇所についてH.-D. ヴエントラントは

「パウロはここでこの風習を攻撃してはいないが、積極的に支持してもいない。彼はコリントで行われていたこのことを、ただ例として用いるだけである。すなわち、それは死人の復活が存在し、それゆえ〔代理の〕洗礼を受けることによって、すでに死んだ人が洗礼を受けたキリスト者として復活する者と等しいと認められるかぎり、意味を持つのである。」(NTD新約聖書註解7 コリント人への手紙P305 NTD新約聖書註解刊行会1974)

 と記している。従って死者が決して復活しないのなら死者のために洗礼を受けることは無意味なことになってしまうのである。

 死人のために洗礼を受けるということについて竹森満佐一師は

「親しい人で亡くなった人があった場合などは、その人のために、洗礼する道はないか、と思っても不思議はないだろう、と思います。しかし、洗礼を受けるには、自分が信仰を持っていなければ、できることではありません。したがって、死者のために洗礼するということは、できないことである、と思います。」(『講解説教・コリント人への第一の手紙P582』新教出版社1988)

と述べておられる。イエスも十二年間も患って出血が続いている女が癒されたことについて「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マタ  9:22)と語っておられる。

2023/5/9(火)担当 ラウジー満世師 創世記37:23-27 賛美 聖歌総合版529 聖歌511

 父の家から遠く離れたシケムで羊の群れを飼っていた兄のもとにヨセフがやってきた。父の庇護のもとから離れてヨセフを守る人がいないこの好機を兄たちは利用した。普段から積もり積もった怒りと憎しみは彼らを恐ろしい行為へと駆り立てる。ルベンが父に対して説明しなければならないという責任を自覚していたがゆえにヨセフの殺害は何とか回避されたが、それでも兄たちはヨセフを穴へと投げ込む。必死で助けを求めたであろうヨセフの声は兄たちの耳には届かない。さらにヨセフをから井戸に投げ込んだ後、兄たちは平然と食事をはじめる。罪悪感はなかった。

 兄たちはヨセフの不遜な態度に怒っていた。父から特別に愛されていることを妬んでいた。このような感情に支配される時、人間は簡単に怒りを行動に移し、罪を犯す。怒りや憎しみにとらわれることのないよう、神の導きによって赦し、正しく歩ませていただこう。

2023/5/10(水) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:30-31  賛美 聖歌(総)205 聖歌 236

 パウロは「なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。」と語る。パウロがコリントの信徒への手紙Ⅱ11:23-31において語っているように、パウロの宣教は苦難と危険に満ちたものであった。そのような歩みを支えたもの、苦難の中に在っての望みは「復活」であった。パウロはフィリピの信徒への手紙に「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」(フィリ2:13-16)と記している。復活こそ、聖徒の歩みを支える力であり、希望である。

2023/5/11(木)担当 ラウジー満世師 創世記37:28-36 賛美 聖歌総合版577 聖歌553

 弟を売り渡そうという計画は目論見通りに進まなかった。実際には商人たちの手によってヨセフはエジプトに連行されていたので、兄たちの計画の通りになっていたのだが、兄たちはその事情を知らなかった。突然姿を消したヨセフについて、兄たちは父への説明を迫られる。嘘をついて弟の死を演出し、最初の言葉の通りに(37:20)野獣に責任を押し付けている。怒りに燃える兄たちの気持ちは弟を穴に投げ込んだときには一瞬すっきりしただろう。しかしその後、兄たちは大きな責任を負うことになり、父は失った愛する子を思って嘆き悲しみ続けることとなった。家庭の中でシャロームが失われた。

 兄たちの弟に対する不満や怒りは自然な感情としてこみあげてきたものであろう。しかし神に喜ばれない感情を放置し、その感情に支配されて行動するならばそれは自らを罪に陥れ、人々を傷つけ、平安を壊すことに繋がる。神に喜ばれる心を求めよう。

2023/5/12(金) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:33 賛美 聖歌(総)519 聖歌 501

 パウロは当時諺となっていた言葉を用いて警告を与える。「思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。」と。ヤコブは「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」(ヤコブ4:3-8)と記している。また、ぺトロは「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(Ⅰペト2:1-2)と勧めている。私たちを肉欲の充足と滅びに導く世の誘惑の言葉に耳をかさず、いのちの言葉を慕い求め、キリストの復活に与るものとなろう。

2023/5/13(土) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:34 賛美 聖歌(総)250 聖歌 273

 パウロは「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。」と語る。この箇所についてH.-D. ヴエントラントは

「コリントの人々は死人の復活を否定する結果、宗教的酩酊の中にある。しかし復活を確信することは、本当に覚めていることなのである(なぜなら、それはコリントの人々の緊張のない、宗教的な完全性の感情とは無縁であって、未来の完成を目指しているからである)。彼らは霊的知識を誇っている。そこでパウロは鋭い語調で、君たちは神について無関心であると言う。復活の否定がそのことを証明する。しかし神は復活の神であり、生ける者の神であって、死んだ者の神ではない(Ⅱコリ1:9、マル11:27とその平行記事)。こう言って、パウロはロ12-19節で述べたことを大きく越えて前進する。死人の復活を否定する者は、それによって、神がだれであり、神がいかに行動されるかを全然理解しなかったことを示している。神は死人を生かす神、無から有を、死から生を呼び起こす新たな創造者(ロマ4:17)としてのみ神である。」(NTD新約聖書註解7 コリント人への手紙P307 NTD新約聖書註解刊行会1974)  と記している。私たちが正しい信仰生活を送るためには聖書の学びと研究、神学の研鑽は不可欠である。同時に、主は復活され、生きておられるお方である。それ故、常にお祈り、命の交わりを持つことが重要である。