≪デボーションの友≫2023/5/1-6

2023/5/1(月) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:20-28  賛美 聖歌(総)481 聖歌 468

 「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」と述べたパウロは決然として「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」と語る。「キリストの復活」それは神が愛により、その大能の力をもって成し遂げられた事実であった議論すべきものではなく、信仰をもって受け入れるべき神の現実である。

2023/5/2(火)担当 ラウジー満世師 創世記37:12-19 賛美 聖歌総合版319 聖歌332

 ある時ヤコブはシケムで羊の群れを飼っている兄たちのもとにヨセフを送り出した。それは兄たちが元気(シャローム)かどうかを見極め、羊の群れの無事(シャローム)をも見極める為であった。しかしこのシャロームのためという思いは兄たちの憎しみのゆえにすぐに砕かれる。ヨセフを溺愛する父は遠く離れている。兄たちが募らせる憎しみを実行に移す好機であった。憎しみに支配された兄たちはヨセフの姿は認めたがまだ到着する前から彼を殺す計画を立てる。感情に支配される時に人間はしばしば善悪を見極めることが出来なくなり、神に背く行為にも自制を失う。結果としてシャロームが壊され、罪を犯す。

 憎しみが心を占める時、人間はその奴隷となり、結果的に罪を犯し、神に背く。だからこそ他者への憎しみや怒りが心に芽生えたならばすぐに向き合い、神の助けにより赦すことが必要である。聖霊の助けにより頼もう。

2023/5/3(水) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:20-28  賛美 聖歌(総)123 聖歌 168

 パウロは「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」と語る。死者の蘇りについてはラザロをはじめ、聖書にはいくつかの事例が記されているが、「復活」は甦りとは全く違う。甦った人はまた死んでいった。しかし「復活」は生かされることになるのである。45-47節では「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。」(Ⅰコリ15:45-47)と語っている。また、ローマの信徒への手紙においては「罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ロマ5:21)と語っている。キリストの復活、それは信じる者に永遠の命を得させるのである。

2023/5/4(木)担当 ラウジー満世師 創世記37:18-24 賛美 聖歌総合版580 聖歌556

 近づいてくるヨセフの姿を見ながら交わされる兄たちの会話である。父の寵愛を受けた弟ヨセフの態度には兄たちも辟易していたのであろう。ヨセフへの憤りと憎しみは弟と言えども殺害まで計画するほど激しかった。しかし兄たちの中でもそれぞれの立場が異なり、ヨセフの扱いについての意見も食い違っていた。ルベンは、殺害は避けるべきだと考え、いつかはヨセフを父のもとへ連れ帰ることが出来るようにという隠れた意図に基づいて一時的にヨセフの命を守る提案をし、受け入れられた。

 同じ相手を憎むことで結束した兄弟の間にも温度差があった。この温度差のゆえにとりあえず命は守られたヨセフであったが、前述の夢に示唆されている選ばれた者ヨセフへの神の守りが背後に働いていることが感じられる。神の御業はいつも必ず明確に人々が認識する形で進むとは限らない。だからこそ、何気ない事の成り行きの裏で働く神の御業を見極めることもまた必要である。

2023/5/5(金) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:20-28 賛美 聖歌(総)127 聖歌 172

 続いてパウロは「ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。」と語っている。この箇所について竹森満佐一師は

「よみがえりの順序は、この通りではありましょうが、実は、もっと重要なことを告げるために記したのではないか、と思います。それは、それにつづいて「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである」(二四節)と説いてあることであります。このことは、一寸見たところでは、復活の順序とは関係のないことが書かれているように見えるかも知れません。しかし、ここに言われていることは、ただ、復活の順序というようなことではなくて、キリストの復活そのものの目的が書いてある、ということである、と思います(中略)復活は、実は勝利であったのであります。あらゆる国すなわち支配を、父なる神に渡される(二四節)と記されています。それは、キリストが、すべてのものに勝って、王として君臨し、やがては、その王としての支配を神に渡されるのであります。「なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足のもとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」(二五節)と記されています。(中略)キリストこそは、まことの勝利者でいらっしゃる、ということなのであります。それならば、復活の目的が勝利にあったことは明らかではないか、と思います。」(『講解説教・コリント人への第一の手紙P577-578』新教出版社1988)

と述べておられる。ヨハネの黙示録は「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」(黙 17:14)と語っている。勝利者キリストを讃えよう。

2023/5/6(土) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:20-28  賛美 聖歌(総)636 聖歌 598

 パウロは「最後の敵として、死が滅ぼされます」と語る。この箇所について竹森満佐一師は

「ここには、最後の敵と書いてあります。死が最後の敵であり、もっともおそろしい敵であります。その最後の死を滅ぼされたのであります。死がどんなに強いといっても、復活に勝つことはできません。 したがって、キリストの復活の最終目的は、この最後の敵である死に勝つことでありました。したがって、ここでは、復活の順序を語るのか、と思えば、死に勝つキリストを告げようとするのであります。」(『講解説教・コリント人への第一の手紙P553』新教出版社1988)

と述べておられる。

 パウロは更に「「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」と語っている。このことについて竹森満佐一師は

「一番大切なことは、「それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである」(二八節)ということである、と思います。信仰のことは、どちらから考えても、神が、あらゆることにおいて、神となられ、神として拝まれることにあるのであります。その点については、主イエス・キリストの救いの点についても、同じことがいえるのであります。キリストは、独自に救いの業を進められたようにみえます。十字架につき、よみがえらせられたのであります。しかし、それも、また、すべての者にあって、神がすべてとなられるためであります。そのために罪人も教われるのであります。罪人が罪人の幸福のために救われるように思う人があるとすれば、それは誤りであります。神がまことに、すべてにおいて神となるために、罪人もまた救われるのであります。」(『講解説教・コリント人への第一の手紙P580』新教出版社1988) と述べておられる。