2012/4/16-21

 

2012/04/16(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 4:1-11 賛美 聖歌560
 この箇所で語られる「神の安息」について考えてみよう。「安息」は、後ろに向かって、創造の善き業が完了したときの神の「安息日の休み」を指し示す。また前に向かっては、「こうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2:10-11)と記されているように、完成された贖いの業を指し示すのである。しかし「安息」は、始めと終わりに適用されるだけのものではない。安息は、今の時の只中におけるキリスト者のうちに与えられる、神の意志に与っていることへの静かな確信(4:3) でもある。クリスチャン生活に在って「安息」とは戦いのないことではない、戦いをやめることではない、戦いの真只中に在って、神にあることへの確信である。ステファノは迫害の中に在って感謝と喜びの内に殉教の死を遂げた。パウロとシラスは苦痛の中に在って神を賛美した。主は十字架を前にして「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな(ヨハ 14:27)」と語られた。神に対する、御言葉に対する確信こそが安息をもたらす。
 

 

2012/4/17(火)担当 高谷満世師 サムエル記上16:14-23 賛美 聖歌295
 神から捨てられた王サウルと、神によって密かに油注がれたダビデの出会いである。サウルが主に捨てられた後、主の霊が彼から離れ、災いもまた主によって与えられた。その中でサウルが竪琴の名手を探していた時に家臣の提案によりダビデが王宮へと連れてこられた。サウルはダビデを仕える者として召した。この出来事に関わるサウルや兵士の目からは他の人々が王に仕える者として選ばれるときと同じ過程に見えた。しかし実際には神がすでに選んでおられ、油注がれたダビデが召されていた。
 人の目には見えない部分でも神のご計画は前進している。人が自分で事を進めていると考える背後に確かに神は働いておられる。私たちも日々主の御手の中にあって導かれ、歩んでいることを覚え、今日も主のみこころがなるようにと祈りつつ歩もう。
 

 

012/04/18 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:1-2 賛美 聖歌458
 「彼ら」とは神の言葉を聞き、モーセに率いられてエジプトを出た人々である。彼らにもわたしたちにも福音―神の安息に入る道―が与えられていた。しかし彼らはそこに入ることができなかった。それは彼らに語られた福音が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためである。
  ルカは次のような出来事を伝えている。イエスが会堂長ヤイロの願いにこたえて彼の家に向かっておられた時、12年間病に苦しみ、医者に全財産を使い果たした婦人がイエスに信仰をもって触れた時、彼女の病は癒された。『イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ 8:45-48)』
 多くの人が福音を聞く。しかし御言葉が生きて働き、御業が成就されるのは御言葉が信仰によって受け止められる時だけである。
 

 

2012/04/19(木)担当 高谷満世師 サムエル記上17:1-11 賛美 聖歌490
 イスラエルは今戦闘状態にある。まさにペリシテ軍と向き合っている。その時、ペリシテ人の中から一人の屈強な兵士が進み出た。体格が立派であっただけではなく、頑丈な武具でしっかりと身を固め、さらに攻撃用の武器も手にしていた。イスラエルがどこから彼を攻めようとしても、攻める隙が見つけられないばかりか、この大男はいつでも攻撃する用意が整っていた。自らが有利だと知りながら、ゴリアテは自分と一騎打ちをするものは居ないのかと呼びかけた。これは単なる呼びかけではなく、ゴリアテ自身に対抗し得る兵士がイスラエルには居ないと確信したうえで投げかけた愚弄の言葉でもあった。そしてダビデが出てくる時の言葉により(37節)、ゴリアテがイスラエルの背後に居られる神をも愚弄していることが分かる。
 目の前に巨大な敵が現れ、脅しの言葉を投げつける時、私たちは思わず恐れ惑い、逃げたくなる。そのような時ふと自分の心を顧みるならば、神に頼ることを忘れ、自分の弱さを見て畏れ惑っている。サウルやイスラエルのように神を忘れるのではなく、逆境と恐れの中に居る時こそ、神を信頼して祈り、助け求めるものになりたい。
 

 

2011/04/20(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:6−11   賛美 聖歌621
 イスラエルの民が神の安息にあずかることに失敗したのは、彼らに告げ知らされた福音のことばが、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためであったと言われている。聖書に啓示された福音のことば―神の安息に入る道―とは、天地創造から新天新地に至る壮大な神の御計画である。人はその長大な時間の一駒を生きるのである。わたしたちは主イエスによるあがないの恵みの中に生かされている。しかし救いの完成の時、主の再臨の時はなお未来に属している。現実には「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」の支配下にある世にあって苦難の歩みを強いられている。「主の再臨は近い」と語られてから、人間の目から見るなら長い年月が経過した。このような状況下に生きる私たちが信仰の目をそらすなら「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか(?ペテ 3: 4)」という不信仰者のことばに心惹かれ、信仰の破船に陥る危機を招くのである。忍耐をもって堅く信仰に立とう。
 

 

2012/04/21(土)高谷由紀子師 マタイによる福音書13:8   賛美 聖歌322
 長引いた寒さも去り、春爛漫の好季節である。この時期はまたカボチャ、茄子、トマト、胡瓜、ピーマン等の夏野菜の種まき、植え付けの時でもある。人々は多くの収穫を夢見て種をまき、苗を植え、水をやり、雑草を取り除き肥料を施し害虫を駆除し・・・等々、労苦を惜しまない。主イエスは種まきの譬えの中で「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった(マタ 13:8)」と語られた。わたしたちも多くの収穫を期待して日々福音を伝え、御言葉の種をまきましょう。