2021/8/23-28

 2021/8/23(月) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 聖歌 196

 「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」と語ったパウロは「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」と勧める。テモテへの手紙?においてパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(?テモ 3:16)と述べている。また、ヘブライ人への手紙の記者は「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブル 4:12)と述べている。神の言葉は常に口当たりの良い、甘いだけのものではない。時には鋭く心を刺し通し、痛みを与える。それによって私たちを悪から離れさせ、義へと導くのである。それは医師が死に至らせる病巣の摘出手術を行うようである。パウロの「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(二テモ4:3-4)との警告に心をとめ、謙虚に御言葉に従おう。

 

2021/8/24(火) 担当 ラウジー満世師 ハガイ書2:20-23 賛美 新聖歌341

 最後にハガイは神の約束を再度力強く語る。総督ゼルバベルは捕囚の地で恩赦を受けたエホヤキン王の孫であり、ダビデ王家の血筋であった。神はこの約束を与えた家から確かに一人の人を選んで迎え入れると語られた。その時には異邦の国々は砕かれるという。まさに神の約束の再確認であった。捕囚から帰還してなお様々な困難に直面する人々は心挫ける現実の厳しさを受け止めきれない状態であった。出口が見えない困難に目を奪われている民にこの約束の再確認を語り、それによって人々の目を、現状ではなくやがて成就される神の支配の時へと移した。

 眼前の相次ぐ困難のなかで恐れを克服し、不信仰から自由になるために必要なことはただ主を見上げることである。それによって心に巣食う恐れから解放され、主を待ち望むことが出来る。私たちも救いの約束に固く立ち、世界をすべ治めておられる主を認めて前進しよう。

 

2021/8/25(水) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 新賛美 新聖歌 339

 パウロは「詩編と賛歌と霊的な歌により」と述べている。大隅啓三師は公同礼拝での教えと訓戒における「詩編と賛歌と霊的な歌」の重要性を指摘し、「これらの歌は「キリストの言葉が宿る」ところに生まれるのであるから、キリストの言葉にふさわしくないものは当然排除されてしかるべきである。讃美歌の良否の基準はここにある。そして、「知恵をつくして」とあるように、キリスト教的知性が十分に生かされるべきものであって、単に敬度な感情を高揚させるだけのものであってはならない。興奮状態に陥り、忘我の境をさまようことと神を崇めることとは別物なのである。ロゴスにふさわしいことが讃美歌の条件なのである。また前述したように教化に役立ちうるものでなければならない。つまり、メッセージを持っているということである。」(説教者のための聖書講解No4258日本基督教団出版局1983)と述べておられる。

 「エクスタシー」それは宗教の一要素であるかもしれない。しかし、知性と理性が埋没してはならない。それは神が人間に与えてくださった大切の能力である。

 

2021/8/26(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書1:1 賛美 新聖歌291

 ゼカリヤ書の冒頭で祭司イドの孫であると紹介されているゼカリヤは、エズラ記5:16:14によればゼルバベルと大祭司ヨシュアの時代にハガイと共に神の言葉を語っていた。先日まで読んできたハガイ書の預言者と時期が重なりながら語ってきたゼカリヤは、ハガイがその働きを終えた後もなおしばらくの間、神殿建築を進める民に対して神の言葉を語り続けていた。同時代に語った二つの書を比べると、ところどころに日付が書かれているなど、その形式はよく似ている。ハガイよりも少し後の時まで語ったゼカリヤの預言には終末についてより多く語られており、正しく歩み、道徳的な側面を大切にすることがより強調されている。

 神殿建築が進み、終末への期待が高まる中で語られたゼカリヤの預言を読み、私たちに語られる主のみ言葉を聞こう。

 

2021/8/27(金) 担当 高谷清師 詩 63:2  賛美 新聖歌 341

 詩人は「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み/あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。/わたしの唇はあなたをほめたたえます。」と詠う。命を奪おうとする者が押し迫ろうとしている時、聖所において激しい飢え渇きをもって祈る詩人に、神はご自身を啓示してくださった。神の力と栄を目にした詩人は「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。」と述べ、「わたしの唇はあなたをほめたたえます。」と告白するほかなかったのである。

「信仰と聖霊に満ちている人」と言われていたステファノに対して主はご自身を顕された。主の栄光を見たステファノについて「聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。」(使7:56)と記されている。そして「人々が石を投げつけている問、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」(使7:59-60)と記されている。ここに真の信仰者の幸いがある。

 

2021/8/28(土) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 新聖歌 242

 パウロは「感謝して心から神をほめたたえなさい。」と語る。聖書は私たちに祈ることを教え、神は私たちに祈りを求めておられる。神の民の歩みは苦難の連読であった。そのような中で彼らは多くの祈りをささげてきた。苦難と困難からの救いを求める祈り、敵の手からの解放を求める祈り、沈黙される神に対して答えを求める祈り・・・・・。

 聖書を読んでいく時、私たちの神は全知全能であり、万物の創造者にして維持者・支配者であられる。この神はまた、義にして聖であり、愛なるお方であることが分かる。このお方が贖いの御業を成し遂げてくださった。ただ愛によって。御子なる神が肉をとって世に来てくださり、世の全ての罪を負って十字架に架かり、血を流し、死んでくださり、それによって私たちの罪の贖いを成就してくださった。死に打ち勝って甦り、それによって勝利と永遠の命を与えてくださった。この福音を前にして私たちの祈りは唯、感謝と讃美に帰結する。私たちの最終的な祈りは感謝と讃美である。