≪デボーションの友≫2022/8/22-27

2022/8/22(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:10-12 聖歌539  新聖歌 282

 パウロは「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」(申 27:26)と言う御言葉を引用して「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています」と述べる。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「パウロがここで引用する旧約の箇所((申 27:26))は、律法を欠けなく実行することが可能であるとの前提に立っている。そして事実、律法を個々の掟の集積と解し、かつこれらの掟の直接的、外形的な面に着目するならば、そのとおりである。しかし、パウロはイエスによって、全ての掟の中に込められた神の要求の無条件的絶対性と言う律法の奥義を学んだのであった。そこからしてパウロは、このような奥行をもった深い意味での律法は、いかなる人間もこれを完璧に実践しおおせないことを悟った。それゆえ、救いを律法の道によって求める者は、だれであれ、律法のつきつける厳しい否に、すなわち呪いに会わざるをえない。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P63ー64 NTD新約聖書註解刊行会1979) と記している。

 イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタ 22:37-40)と教えておられる。これは人が全存在をかけても完遂しえない求めである。

2022/8/23(火) 担当 ラウジー満世師 創世記15:1-3 賛美 聖歌(総)629 聖歌590

 アブラムに対して幻の中で主の言葉が語られた。「恐れるな」と突然声をかけられた。心の中で恐れを抱いているアブラムに対して、神は大きな報いを約束して、言葉を与えて下さった。神から個人的に語り掛けていただくとはなんと大きな恵みだろうか。しかしアブラハムはこの恐れおののくべき場面でも神に対して積極的な応答はしていない。アブラムは子がいないことを嘆き、自力で次世代として自分の財産を受け継ぎ、家を整える者を整えたと言う。アブラムのこの言葉は、突然語り掛けてアブラムとコミュニケーションを取ろうとする神に対して礼を欠く答えであった。いやそれ以上にこれは神がかつて約束したにもかかわらず、実際には子供を与えてくれなかったと不満を述べて、怒りをぶつけているようである。

 人は、自分を見出して声をかけて下さった神に対してこのように答えるだろうか。それでも神は彼を叱責することなく、アブラムの不安を受け止めてさらに対話を続けて下さった。神は私たちが不信仰に陥り不安になった時に親しく声をかけ、対話し、強めて下さる。真摯な心で神と向き合い、神を愛して神との交わりに生きよう。

2022/8/24(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:10-12 聖歌(総)532  聖歌514

 イエスによって、全ての掟の中に込められた神の要求の無条件的絶対性と言う律法の奥義を学び、このような奥行をもった深い意味での律法は、いかなる人間もこれを完璧に実践しおおせないことを悟ったパウロは、それ故に律法によってはだれも神の御前で義とされないことを知った。そしてハバククの預言の言葉「神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバ 2:4b)によって人は信仰によってこそ、生きるのであることを明らかにする。この間の消息についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「救いの道としての律法は、右のような信仰とはなんのかかわりもない、全く異質のものである。というのも律法にあっては、その命じるところを実践するか否かに、すべてがかかっている(ロマ.10:5) のに対して、自己自身の働きを神の前に業績として持ち出すことを断念することこそ、信仰の消息にほかならないからである。この二つの道のあいだには、あれか、これかの選択しかない。一方が生命に至る道であれば、他方は死に至る道であって、両者間に妥協や折衷の余地はない。そこで二股かけて歩こうとすることは、端的に不可能である。ガラテヤ人たちは一方でキリストを信じたい気を持ちながら、他方で律法にも手を出したのである。この不純のゆえに彼らは折角の救いを台無しにしてしまうのだ。なぜならそうした不徹底な態度は、祝福と義と生命の唯一のみなもとである信仰に背を向けることにほかならないからである。救いを律法の道によって期待する者は、だれであれ、呪いに至る。この厳しい原則は、またキリスト教徒に対しても等しく妥当するのである。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P64 NTD新約聖書註解刊行会1979)

 と記している。律法の道、それは厳しそうであるが安易な道であり、信仰の道、それは易しそうであるが、厳しい道である。しかしそこには絶えざる聖霊の助けと導きがある。

2022/8/25(木)担当 ラウジー満世師 創世記15:4-7 賛美 聖歌(総)409 聖歌408

 神が約束の子どもをいつまでも下さらないから自分で対策を練り、次の世代を確保しました。と訴えるアブラムを叱らず、信仰の弱さを嘆くこともなさらないで、神は淡々と最初の約束を、語り方を変えて繰り返された。あなたの後を継ぐのはあなた自身から出た肉においても本当の子どもであると。精一杯の怒りを神にぶつけたアブラムにとっては意外な答えだっただろう。アブラムも神の言葉を冷静に聞き、神が見せて下さるしるしとしての偉大な被造物を見るうちに神を信じるという決断を再度行うことが出来た。ひと時信仰が弱ることがあったとしてもそれですべて終わりではない。神は弱り果てる私たちに愛の御業を思い起こさせ、私たちの信仰が回復されることを喜んでくださる。目を開いて神を見上げ、心を開いてみ言葉を聞き、日々祈り、信仰が弱るときにも神から逃げず、神に向き合って訴え、回復させていただこう。神は待っていてくださる。

2022/8/26(金) 担当 高谷清師 詩 69:31-37 賛美 聖歌(総)596 聖歌 538

 主に自らの罪を告白した詩人は、その告白のゆえに迫害に遭い、塗炭の苦しみの中に突き落とされる。その苦難の中に在って自らの救いと迫害者への裁きを求めて祈る。その祈りは詩人を疲れさせる。その疲れの中に在って天を仰いだ詩人の魂に神の光が差し込む。それによって詩人は神を賛美し、礼拝する。この詩を詠むとき、サウルの故なき迫害によって絶えず命の危険にさらされていたダビデの詩を想い起す。

【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い

       魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく

わたしを正しい道に導かれる。

       死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。

あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖

それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。

             命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

 試みの時にも苦難の時にも主を見上げて歩もう。

2022/8/27(土) 担当 高谷清師 マタ 6:13 賛美 聖歌(総)232 聖歌256  主は「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく/我らの罪をも赦したまえ」と言う祈りに続いて「私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください。」と祈るように教えておられる。御霊の導きによって信仰を与えられ、救いの恵みに与った私たちに襲いかかる第二の敵がある。それは経済的困窮であったり、重い病であったり、家庭生活における困難な問題であったり、仕事上の不運に見舞われたりする。また、他人から故なき悪口や中傷にさらされることもあるであろう。そのような問題が押し寄せる時、私たちから神の恵みが遮られ、神が慈しみに富み、憐れみ深く、愛のお方であることが疑わしく思われ、私たちはいかなる時にも恵みと赦しの中におかれているのだということが理解できなくなってしまうので会う。そのような時、勝利をもたらすのがこの「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく/我らの罪をも赦したまえ」と言う祈りです。日々祈りを献げ、勝利の道を歩みましょう。