≪デボーションの友≫2022/8/15-20
- 2022.08.14
- ディボーションの友
2022/8/15(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:7-9 聖歌(総)562 聖歌 540
パウロは「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創15:6)と言う御言葉を引用して「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」と語る。アブラハムが神に義と認められたのは自分の行いの積み重ねによってではなく、自己の全存在を賭けて立つ信仰によってであった。この時代のユダヤ教もアブラハムの信仰について多くを語り、これを讃えた。しかしそこで語られる信仰とは他の諸々の業と並ぶ功績の一つとして位置づけられる善行に過ぎなかった。しかしパウロがアブラハムに見出した信仰は自己の全存在を賭けたものであり、この姿勢を神が義と認められたのである。ここに私たちに求められる信仰が示されている。
2022/8/16(火) 担当 ラウジー満世師 創世記14:1-16 賛美 聖歌(総)508聖歌490
アブラムと彼が生きた時代と地域の他の国々とのかかわりについて語られている数少ない箇所である。神がアブラムを導かれたその時代と地域にはすでに国々が存在し、互いに戦いながら支配範囲を拡大し、主従関係を武力によって明確にしていたようである。アブラムはこの戦いに関わってはいない。しかしロト自身が選んで住んでいたソドムはこの戦いの渦中にあり、アブラムのもとに一人の生き延びた男によって甥のロトが捕虜とされたことを知らされた。アブラムは自らの親族を救出するために戦いの備えをして敵を追跡した。アブラムはその地で築いた同盟関係を用いてロトを無事に救出した。
ロトと分かれ住むことになった経緯や、ロトが自分の目に正しいことを選び取って悪の満ちる町に住んだことなどは全くここでは述べられていない。神から与えられた親族の危機に手を差し伸べるためにアブラムは出かけ、実際に彼を救った。主にある家族は神から与えられた存在である。互いに助け合い、共に主の御前に歩むことは神の恵みである。兄弟姉妹が共に神を見上げ、御心に沿って互いに支え合っていこう。
2022/8/17(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:7-9 聖歌(総)512 聖歌494
続いてパウロは「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」と語る。創世記は「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(創12:1-4a)と述べている。更にヘブライ人への手紙は「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。(中略)信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」(ヘブ11:8-11)と述べている。信仰こそ神の祝福の基である。
2022/8/18(木)担当 ラウジー満世師 創世記14:17-24 賛美 聖歌(総)551 聖歌529
ここもまた難解なところである。アブラムがロトを救出して帰ってくるとサレムの王メルキゼデクが出迎え、祝福した。メルキゼデクが仕えていた「いと高き神」はアブラムをカルデヤのウルから導き出した神ではなかった。アブラムはメルキゼデクの祝福にふさわしい、すべての者の十分の一を送った。それはアブラム自身が語るようにアブラムを祝福したのはただ天地の造り主、いと高き神、すなわちアブラムを導き出したお方だけであるということを地のすべての人々に明確に示すためであった(14:22)。
私たちも生活のすべてを通して私たちを祝福するのはただ天地の造り主であり私たちを召し出して導き続けるいと高き神、真の唯一の神だけであるということを証しし続けていきたい。神を信じない人々が彼らの手によって私たちが祝福されていると誤解を与えるような申し出を受けることは信仰によって辞退し、神の恵みによって歩むことを世に示そう。
2022/8/19(金) 担当 高谷清師 詩 69:7-13 賛美 聖歌(総)232 聖歌 256
聖書は「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」(1ヨハ 1:9)と述べている。この御言葉は真実である。私たちが自らの罪を認識した時、それを主に告白し悔い改めるなら主は豊かな憐れみをもってご自身の尊い血潮により、赦しを与えてくださる。しかし、人の反応はそうではない。この詩人は罪の告白のゆえに迫害され、病み、生命の危険にさらされている。ある人は神様から受けた素晴らしい祝福を証しし、共に主を褒め称えようとして親友から止められたという。「証しを聞く人々は共に主の御名をあがめるよりもあなたを妬む」と。残念ながら、これは人の現実である。この詩人は迫害する人々に対する憎しみから、彼らに対する神の裁きを求めて祈る。しかしそれは詩人を苦しみと痛みに閉じ込める。憎しみ、それは自らを破壊する。パウロは「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エフェ 4:32)と述べている。主の豊かな恵みの中に在って互いに赦し合う者となろう。
2022/8/20(土) 担当 高谷清師 マタ 6:13 賛美 聖歌(総)653 聖歌608
主は「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく/我らの罪をも赦したまえ」と言う祈りに続いて「私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください。」と祈るように教えておられる。この祈りについてヴァルター・リュティは
「私たちの罪が赦されたとしても、私たちは残念ながら罪人であることをやめるわけではないので、試みは自分自身の心の中で始まるのです。私たちの罪が赦されても、私たちは罪のない状態に移るわけではありません。(中略)」罪はまさに赦された時にこそ、元通りに再生しょうとします。(主の祈り P114 会社新教出版社2013)
と記している。 筆者は趣味として家庭菜園を楽しんでいます。種まきの季節を迎えると丁寧に雑草を取り除き、よく耕して種を蒔きます。やがて作物が芽を出すと雑草も生えでてきます。生え出た雑草を取り除き、肥料を施し作物が勢いを増すと雑草は影を潜めます。作物が衰えてくると雑草はわがもの顔にはびこります。罪も同じです。罪は私たちが主から目をそらすと芽生え、信仰をおろそかにするとはびこります。それ故、しっかりと目を覚まし、常に恵みの内にとどまりましょう。
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