2018/7/2-7

2018/7/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 新聖歌 282
 ユダヤ人たちはアブラハムの子孫であることを誇りとしていた。イエスは、ユダヤ人たちが、神によって遣わされて来られたお方の言葉を聞くことが出来ず、そのお方を殺そうとしている事実によって、彼らが悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている者、真理をよりどころとしていない者、その内に真理を宿していない者、アブラハムの子ではなく、悪魔である父から出た者であり、悪魔の子であることを明らかにされた。それに対してユダヤ人たちは「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返した。
 ユダヤ人たちは、自らの真の姿・罪を示された時、謙虚になって悔い改めることが出来ず、イエスこそ「サマリア人で悪霊に取りつかれているものである」と言ったのである。罪を指摘された時、自己義をもって反論したいのは人の常である。しかし謙虚になって自らを省み、御言葉に従う者となりたい。それは信仰と聖霊によらなければ不可能である。

2018/7/3(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:7-9 賛美 新聖歌325
 イスラエルが悔い改め、助けを求めて叫ぶ時、神はその声を聞いてくださり、彼らに喜びを与えられる。神が与えてくださる救いは完全なものである。捕囚の地からすべての人を連れ帰られる。目の見えない人、歩けない人、身ごもっている女性などの身動きが簡単に取れない人々をも、一人も残すことなく連れ帰り、慰めを与えられる。この大きな力をもって民を回復される神は同時に慰めをもって彼らを守り導かれる。
 神が宣言し、神が主導権をもって与えてくださる救いの御業がなされるところに大きな安心と慰めが伴う。それは神の長子としての関係の回復に伴うものであるがゆえに、揺らぐことのない回復である。この神との関係の回復が基礎となり、民の捕囚からの解放という現実の変化が表面の出来事、結果として起こる。外的変化を求めるのではなく、神との親しい、あるべき関係の回復を求めよう

2018/7/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:48-59 賛美 新聖歌 79
 イエスは「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。 わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」と答えられる。ヘブライ人への手紙の記者は「また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。」(ヘブ 5:4-5)と述べている。まことに、私たちの主は、罪人である私たちを神と和解させるという尊い任務を負って、神によって遣わされたお方である。

2018/7/5(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書31:10-14 賛美 新聖歌265
 神の御業は隠されてはいない。戦いに負けて各地に散らされたイスラエルは、一つの国を持つ民としては死に絶えたように見えた。しかしそこから神の力によって回復され、再び集められるという驚くべき出来事は世界の歴史の中ではっきりと示され、さらに主のことばと御業は真の神を知らない諸国の民によって伝えられる。民に喜びを与え、園を潤し、嘆きを取り去り、飽き足りさせるという神ご自身の御業はイスラエルだけが知る秘密ではなく、全世界に告げ知らされ、神の力を全ての人々が知る。
 今でも同じ神が生きて働いておられる。そして神を信じて神に頼る人びとに大いなる救いを与えられる。この出来事はその救いを体験した人々の間にだけ知られるのではなく、周辺の人々にも知られる。私たちを通して神の御業が人々に知られ、それが語り告げられてあらゆる民が神を知り、賛美するようにと祈ろう。

2018/7/6(金) 担当 高谷清師  詩37: 32-33 賛美 新聖歌 327
 ダビデは「主に逆らう者は待ち構えて/主に従う人を殺そうとする。主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ/罪に定められることをお許しにならない。」と詠う。彼は全き信仰をもって歩み、また主君サウルに忠実に仕えた。しかし、嫉妬に囚われたサウルはダビデを亡き者にしょうとして執拗にその命をつけねらった。しかし神は彼を守られた。晩年、ダビデは「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩 23:4-5)と詠っている。またパウロは「アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。」(?テモ3:11-13)と述べている。主に逆らう者はあらゆる手を使って主に従う人を陥れ、殺そうとする。しかし神はそれをお赦しにはならず、主に従う人を守られる。

2018/7/7(土)担当 高谷清師 マコ 10:17-21 賛美 新聖歌 282
 イエスが旅に出ようとされているところにある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と。イエスは「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」とお答えになると彼は重ねて「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。するとイエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と。この記事からイエスに尋ねた人はある程度社会的地位と経済力を持ち、誠実に生きようとしている人、善良な市民であったと考えられます。しかしイエスは彼の内に一つの足りないものを、そして決定的に足りないものを指摘されました。それは彼の目が肉的なもの、世的なものにのみ注がれ、霊的なものに閉ざされていることです。パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(?コリ 15: 50)と述べています。しっかりと霊の目を開いて歩みましょう。”,,536″