2018/6/25-30

2018/6/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 75
 イエスはご自身について語られる「わたしは父のもとで見たことを話している。」「わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。」と。イエスは真の神であり、初めから父なる神と共に天において存在されたお方であり、父なる神によって世に遣わされて世に存在されたお方であり、地上に在っても天に属しておられるお方であった。それ故に、地に属する者は、神によって啓示され、信じた者以外は、イエスを受け入れることが出来なかった。ヨハネが「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハ 1:11-13)と述べているとおりである。純なる心をもって神の言葉に耳を傾けよう。

2018/6/26(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書30:18-32 賛美 新聖歌343
 力強い回復への宣言がなされる。繁栄を回復し、町を再建し、再建された町から人びとの声が聞こえ、民の数も増やされるという確固たる回復の約束を宣言されるのは神である。神ご自身がこれらのことを全て行われる。神の裁きを受けて国が滅ぼされ、諸国に散らされたイスラエルの民に国を再建する力はなかった。しかし神は罪を犯した民に対してさえ憐れみをもって、裁きだけではなく回復も与えられると宣言される。全能の神ご自身が、ご自身の力によって回復させると言われるがゆえに、力があり、信頼することができる。イスラエルがどのような状態にあろうと、神は変わりなく全能であり、愛の神である。民がどん底の状態にある時も頼ることができるのは真の神であった。私たちにも同じ神が共にいてくださり、全能の力をもって守ってくださる。
 常に神を信頼し、神との正しい関係にあるようにと自分を省みつつ、神と共に歩もう。

2018/6/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 458
 イエスは悪魔について「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。」と言っている。悪魔はエデンの園にある人を誘惑し、罪を犯させ、死に閉じ込めた。それ故、「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」。そしてイエスを殺そうとするユダヤ人たちに対して「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。」と言っている。彼らはピラトがその内に罪を認めなかったイエスを十字架につけた。初代教会に対する迫害はまれに見る激しいものであった。日本においてもキリシタン迫害は歴史上もっとも激烈なものであった。このような迫害は今も世界各地において繰り広げられている。それは世を支配する悪魔の本姓である。それ故パウロは「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エペ 6:10-18)と勧めている。御言葉に立ち、信仰と祈りによって歩もう。

2018/6/28(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書30:18-32 賛美 新聖歌343
 力強い回復への宣言がなされる。繁栄を回復し、町を再建し、再建された町から人びとの声が聞こえ、民の数も増やされるという確固たる回復の約束を宣言されるのは神である。神ご自身がこれらのことを全て行われる。神の裁きを受けて国が滅ぼされ、諸国に散らされたイスラエルの民に国を再建する力はなかった。しかし神は罪を犯した民に対してさえ憐れみをもって、裁きだけではなく回復も与えられると宣言される。全能の神ご自身が、ご自身の力によって回復させると言われるがゆえに、力があり、信頼することができる。イスラエルがどのような状態にあろうと、神は変わりなく全能であり、愛の神である。民がどん底の状態にある時も頼ることができるのは真の神であった。私たちにも同じ神が共にいてくださり、全能の力をもって守ってくださる。
 常に神を信頼し、神との正しい関係にあるようにと自分を省みつつ、神と共に歩もう。

2018/6/29(金) 担当 高谷清師  詩37: 30-31 賛美 聖歌 196
 この箇所でダビデは神がご自身に従う者に求められる三つの原則について語っている。それは口に知恵の言葉があり、その舌は正義を語り、神の教えを心に抱き、よろめくことなく歩むことである。「口に知恵の言葉があり、その舌は正義を語る」ことについてカルヴァンは「正しい者は,神の正義に対する全尊崇の念をもって語るが、それは自分自身と他の者に対し、あらゆる神の認識と恐れを教えるためである。さらに自分自身の事柄においても、他の人々の事柄においても、彼らは虚飾なしに、直く正当なものを承認し、けっして怒りに我を忘れることなく、また論弁によって、邪悪な主張を糊塗することもない。一言にして、彼らは真実から外れ去ることはない、と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P474新教出版社1970)述べている。
 ぺトロは「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(?ペト1:20-21)と述べている。聖書は神の言葉である。故に、畏れをもって聖霊の導きの中で解釈し、語られるべきであって、その解釈に私情、私利、私欲がはさまれてはならない。いやしくも、自らの主張の正当性を裏付けるために聖句の一部が文脈から切り離されて用いられるようなことがあってはならない。常に聖霊の導きの中で御言葉を読もう。

2018/6/30(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:14-15 賛美 新聖歌 32
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これはイエスが宣教を始められた時の最初の言葉です。一般的に、苦難や災難に遭っている人は、平穏無事に暮らしている人々に比べて、平素の行いが悪く罪深い人々だと考えられがちです。しかし主はピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた人々に対して「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ 13:2-5)と語られました。パウロも「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ 3:23)と述べています。生まれながらの人は皆罪人であり、悔い改めを必要としています。”,,578″