2017/5/15-20

2017/5/15(月) 担当 高谷清師  ヨハネ3:22-30 賛美 新聖歌 436
 ヨハネはサリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。イエスはエルサレムでの働きを終えて、弟子たちと一緒にユダヤ地方に行き、そこに滞在し、洗礼を授けておられた。イエスの働きを見たヨハネの弟子たちがヨハネのもとに来て「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」と報告した。イエスがバプテスマを授けておられるのを見て、ヨハネのもとに来るはずの人々はイエスのもとに行くのを見たヨハネの弟子たちが嫉妬の念を覚え、ヨハネに報告したのである。もっとも、「洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである」(ヨハ 4:2)であったが、イエスの証人と監督のもとに弟子たちが授けていたのである。弟子たちの報告を聞いたヨハネは「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。」と答えている。ヨハネの弟子たちはヨハネの言葉は聞いたが、理解していなかった。ヨハネは神から与えられた自分の職分を理解しており、それに忠実であった。私たちも神より与えられた分に忠実であろう。

2017/5/16(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書2:29-32  賛美 新聖歌216
 民が偶像礼拝に陥って神に背くのを、神はただ何もせずに眺めておられた訳ではなかった。懲らしめを与えて正しい道に連れ帰ろうとしたが、民がそれを受け入れなかった。預言者を送って正しい道を示したが、民はそれを受け入れるどころか、反対に預言者を殺した。神に背いて迷い出てしまった人々は自分が罪を犯している現実をなかなか知ることができない。誰かに罪を指摘されたとしても、それを受け入れることはなかなか難しく、あるいは気が付いたとしても様々な理由のゆえに罪を認めることができない。これが人間の罪深い姿である。
 私たちは罪を赦されて救いを受けた。しかし今なお救いは完成しておらず、肉の弱さを持っている。それゆえに今でも罪を犯してしまう存在である。そのことはわかっていながらも、自分に罪があるとは認めがたい。常に自分が罪を犯す可能性を持っていることを覚え、み言葉や神が送られた人を通して罪を指摘されることがあるかも知れないことを覚えよう。そうしてそのようなメッセージを受け取ったならばへりくだって自省し、神に赦しを求めたい。

2017/5/17(水) 担当 高谷清師  ヨハネ3:22-30 賛美 新聖歌 373
 ヨハネは「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と語る。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、ヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」と答えている。神は御子を世に遣わすにあたってその道備えをするためにヨハネをお遣わしになった。御子が公生涯に入られた時、ヨハネの使命は完遂された。世人の心がヨハネを離れ、御子に向かうこと、あの方が栄え、ヨハネが衰えることはヨハネの喜びである。パウロは「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」(?コリ11:2)と述べている。私たちが御言葉を伝えるのは自分の弟子をつくるためではなく彼らをキリストに導くためであり、キリストの民を備える為である。使命に忠実に生きよう。

2017/5/18(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書2:33-37  賛美 新聖歌366
 2章の最後で姦淫を犯した妻の比喩を用いて、再び辛辣にイスラエルの罪を指摘する。たと
え民がそれを否定したとしても、神は彼らの背きの罪を見逃されはしない。民が無責任に神の怒りが去ったと考えても、神は彼らが罪を認めない限り、その裁きを免除されない。神との契約を破って背くならば、その責任は問われるのである。神を頼みとせず、アッシリアやエジプトという人間の力を頼みとするならば、それらの国々から助けを得るどころか、それらの異邦の国々をも神は裁きの道具として用いられるのである。
 イスラエルを助け得るのは誰か。それはいかなる外国勢力でもなければ、人の力でもない。ただ神だけが彼らを救うことができる力ある神である。神に背き続けて悔い改めないならばその責任を問われる。私たちも神を侮ることなく、畏れをもって主に忠実に歩みたい。

2017/5/19(金) 担当 高谷清師  詩編32:1-5 賛美 新聖歌 449
 ダビデは「わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。」と詠う。鍋谷尭爾師は「私たちの心という袋の中に、「そむき」「罪」「答」という三つの黒い玉が入っています。それらは、くっついたり、増えたり、いろいろの悪い活動をしています。悔い改めとは、それを吐き出して袋がカラッポになることだと考えますが、じつはそうではありません。三つの黒い玉の入った袋のままで、神はそれを赦し、おおい、咎をお認めにならないのです。そしてその根拠は、赦し、おおい、お認めにならない神ご自身のうちにあります。信仰とは、自分の心の袋の中に三つの黒い玉が入っていても、それでも赦してくださる神に信頼して、神の御前に出てすべてを打ち明けることです。34節の精神状態は、神への信頼を欠いて、自分だけで黒い三つの玉を処理しようとするときに現れる苦しみについて述べているのです。」(鍋谷尭爾 「詩篇を味わう」?P253−254いのちのことば社 2005)と語っておられる。心に秘めた罪に苦しむなら、主に告白しょう。主はその罪を赦してくださる。

2017/5/20(土) 担当 高谷由紀子師  マルコ 6:53-56 賛美 新聖歌 434
 当時の群集は飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている状態でした(マタ 9:36)。主イエスはこのような群衆を深く憐れみ、病める人々を癒し空腹の人々に食物を与えられました。このイエスの御業は多くの人々に知られ、人々はイエスがおられると聞くとどこにでも病人を床に乗せて運び、せめてその着物の裾にでも触れさせていただきたいと願い、触れた者は皆癒されました。今日の我が国でも70%の人が病んでおり、その大多数は心の病で苦しんでいると言われています。人々の間に絶望感と飢え渇きが広がっています。それを満たすことの出来るのは福音だけです。日々、福音を証しする者となりましょう。”,,733″