2017/5/8-13

2017/5/8(月) 担当 高谷清師  ヨハネ3:16-21 賛美 聖歌 265
 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と語られている。神は世をさばくためではなく、御子によって世が救われるために御子をお遣わしになったのである。そしてヨハネは「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハ 1:9)と述べた。罪の支配する暗黒の世界に光が到来した時、真理を行う者は光の方に来るのである。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるためである。しかし、真理に背を向け、不義を行う者は光に来ることはできない。
 私たちは弱さを持つ身である。自らの力によって義を行うことの出来ない者である。しかし、真理を、神を求めることはできる。徴税人は自らの罪を自覚しつつ「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」と祈り、受け入れられたのである。へりくだって神を求め続けよう。

2017/5/9(火) 担当 ラウジー満世師 (火)エレミヤ書2:14-19  賛美 新聖歌390
 イスラエルが捕らわれの身になっているという現実を指摘する。神の救いの業によってエジプトから救い出されたはずの民が奴隷になっている。その原因は彼らを導かれた主を捨てたからだと言われる。神に従い、神に頼るべきイスラエルが神を捨てた。そして彼らはエジプトやアッシリアに助けを求めるが、神には頼らない。神を信じることを忘れ、主を畏れる生活が失われている。しかし、真に力ある方は主ご自身である。そして主は御自分の民が忠実であることを求められる。民が神を捨て去るならば、彼らを裁かれる。犯した罪に対しては裁きをもってその責任を問われるのである。
 愛の神が裁きをなさるだろうかと疑問を持たれるだろうか。愛の神は義の神でもあり、忠実を求められる方である。神の恵みを受け取り、神を信じて従う決心をした私たちは常に神に忠実に歩むのである。神以外のものを頼りにするのではなく、神に頼る時、そこに守りがある。

2017/5/10(水) 担当 高谷清師  ヨハネ3:16-21 賛美 聖歌 273
ヨハネは「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と述べた後「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と述べる。闇においては影は存在しない。しかし光が輝くと影が生じる。神が御子を遣わされたのは世を裁くためではなく、救うためであった。しかし人が御子と相対するとき、信じる者と信じない者が生じる。信じない者は救われることがない、即ち、永遠の命に与ることが出来ないのである。パウロが「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」(?コリ2:14-16)と述べているとおりである。信じて命に与るものとなろう。

2017/5/11(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書2:20-28  賛美 新聖歌396
 辛辣な比喩を用いてイスラエルの罪が指摘されている。彼らがバアルをはじめとする偶像礼拝に陥っていることは明らかである。彼らが好んでバアル礼拝を行ったことは、そのための聖所が設けられていることからもわかる。それでもなお偶像礼拝から離れる意志もない。政治的、宗教的指導者も共に偶像を礼拝している。それにもかかわらず、災難に遭えば真の神のもとに来て助けを求める(2:27)。偶像に力があるのならば、その偶像に頼り通せばよいではないかと神が言われる。もっともな言い分であるだけに、皮肉である。この神のことばを通して、自分勝手に偶像礼拝を選んでおきながらも、本当の危機に陥った時だけは主なる神に頼ろうとする人々のずるさや自己中心が浮かび上がる。
 神に仕える、神に従うということは、ご都合主義で、良いときだけ礼拝するというようなものではない。偶像が魅力をもって迫り、誘惑となる時にも、真の神を選び取っていく忠実が求められる。本当に力ある神に忠実であってこそ、危機に叫び求める助けの声が真実の信仰者の声として神のもとに届くのである。

2017/5/12(金) 担当 高谷清師  詩編32:1-5 賛美 新聖歌 434
 ダビデは「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」と詠う。ダビデはアンモン人との戦いの最中、部下の兵士ウリヤの妻と姦通し、ウリヤを謀殺した。その罪をナタンに指摘され、悔い改め、赦しを宣言される。パウロは信仰によって義とされる恵みを論じた箇所で「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」(ロマ 4:6-8)と述べている。このことからわかるように、罪の赦しは神のわざであり、神から出るのである。主イエスの宣教の初めの言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ 1: 15)であった。そしてパウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ10: 17)と述べ、更に「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(ロマ10: 14)と述べている。罪の赦しを得させる信仰はキリストの言葉を聞くことによる。御言葉を宣べ伝えよう。

2017/5/13(土) 担当 高谷由紀子師  ルカ 17:11-19 賛美 新聖歌 265
 重い皮膚病を患っている十人の人たちが「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と懇願した。主はそれに応えて十人全員を癒された。不治の病とされていた重い皮膚病が癒されたのであるから、歓喜に溢れてイエスに感謝をささげ、神を賛美するはずと思われたが、イエスに感謝し神を賛美するために帰ってきたのはサマリヤ人一人だけであった。イエスは「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われた。神を賛美するために帰ってきたのは、選民と言われたユダヤ人には一人もなく、異邦人、罪人とさげすまれたサマリヤ人一人だけであった。真に、心の底から神を信じる者こそ真のキリスト者であり、神の国を受け継ぐ者である。”,,904″