2017/5/1-6
- 2017.05.01
- ディボーションの友
2017/5/1(月) 担当 高谷清師 ヨハネ3:13−15 賛美 新聖歌 434
主イエスは天において父なる神と共におられた真の神であられた。そして父なる神の御心に従い、人となって世に来られた神である。従って、地上に在る者で天上のことと地上のこととを知るお方は主イエスだけである。人は、いかなる偉大な人であっても天上のことを知る者はいない。いかに学問に励もうとも、如何に修業に励もうとも、自分の力によって神を知ることはできない。天上のことと地上のこととを知るお方・主イエスを信じることによってのみ、神を知ることが出来るのである。パウロが「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(?コリ1:21)と述べているとおりである。蛇にかまれた人々が仰ぎ見て死を免れるためにモーセが青銅で造った蛇を掲げたように、罪によって死に定められた人が仰ぎ見て永遠の命を得る為に、主イエスもまた高く上げられなければならなかった。主のみ名は全地に伝えられなければならないのである。
2017/5/2(火) 担当 ラウジー満世師 (火)エレミヤ書2:10-13 賛美 新聖歌281
神はイスラエルの罪を容赦なく指摘する。民に逃げ場は与えられていない。異邦人はそれぞれ神と考えるものを信じている。それは本来力の無い偶像だが、それでも異邦人は自らが信じる神々をほかのものと取り替えたりしない。対照的に、栄光と力ある真の神を信じているイスラエルがその神を空しいもの、すなわち偶像に取り替えてしまっている。イスラエルの第一の悪は真の神を捨て去ったことであると言われる。命の泉である神(詩篇36:10, ヨハネ4章)を捨て去ったのである。神が民を見捨てたのではなく、民の方から神を拒否したのである。
初めに神が民を造り、苦しみの中から救い出し、荒野を導き、必要を満たして命を守ってきてくださった。その神をこともあろうに民が捨て去るということがあり得るのかと感じる。しかし、人間はいともたやすく神の恵みを忘れて離れ去ってしまう。私たちも同じ罪を犯すことがないよう、日々神の恵みを数え、感謝しつ主と共に歩もう。
2017/5/3(水) 担当 高谷清師 ヨハネ3:16-21 賛美 新聖歌 359
ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と述べている。神がご自分の独り子を信じる者の救いのために世にお与えくださったのは、私たちにその価値があり、神に利益を得させるからではない。それはただ愛、アガペー、無償の愛、によるのである。このことに関して語る言葉を持たない。唯、感謝、比類なき愛に感謝しょう。
2017/5/4(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書2:13 賛美 新聖歌2
最初に神が指摘されるイスラエルの罪は、真の神を捨てることと、自ら無用の水貯めを作ることであった。真の神を捨てた人間は、神なしでは生きられない。そこで彼らが自分の手で神なる存在を作り出す。これが偶像である。無用の水貯めとはすなわち役に立たない水貯めである。空っぽで無意味なものである。まさにこれが偶像の本質である。水をためられない水だめとは、その本来の役割を担えないものである。機能が損なわれて役に立たないものである。民が選び取った「神」すなわち偶像とは、神の力を持たないものであり、役に立たず、空しい存在である。
一度神を信じて従った者が再び神でないものを神として選び、偶像礼拝に陥っていくのは悲しい姿である。私たちには降りかからない出来事だろうか?イスラエル同様、私たちも弱い人間である限り、同じ事態に陥る可能性は常にある。それゆえ、いつもへりくだって主の御言葉を聞き、祈り、御心に従う生活を続けよう。
2017/5/5(金) 担当 高谷清師 詩編31:24-25 賛美 新聖歌 458
神を畏れる人々を陥れようとして、悪意をもって数々の網を仕掛ける人々の中に在って、神を畏れる人々は必死になって神に信頼して生きようとする。しかし悪意をもって数々の網を仕掛ける人々の謀は成功し、彼らは繁栄していく。そのような状況下にあってダビデは恐怖に襲われて「御目の前から断たれた」と言った。その只中においてダビデは神が彼の祈りを聞いていて下さることを知った。それ故ダビデは試練の中に在って主に信頼して生きる人々に「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り/傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて。」と語る。主イエスは「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」(マタ 7:15)と教えておられる。柔和で優しそうな羊の皮を纏った貪欲な狼は人々を欺き、歓心を得る。ある人々は保身のために迎合する。一方、その本質を見抜き、悪性を指摘する人々には陰険な迫害を加える。しかし、柔和で優しそうな羊の皮を纏った貪欲な狼が人々神の国を嗣ぐことはない。神を愛し、御言葉の真理に生きる人々、心を強くし、雄々しく歩もう。
2017/5/6(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ7:1-13 賛美 新聖歌 206
イエスの時代に生きたファリサイ人や律法学者たちは律法を全うするために自ら定めた規定や昔の人の言い伝えを固く守ることに熱心であった。彼らが、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのは受け入れがたいことであった。そこで彼らはイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」と尋ねた。これに対してイエスは「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」と言い、更に「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。」と言われた。神の前に正しく生きるとは、律法や昔の人の言い伝えを形式的に守ることではない。神を信じ、愛し、畏れ敬い人々を愛することである。形式的な信仰ではなく、心から神を愛する信仰をもって歩もう。”,,805″
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