2012/4/2-7

 

2012/04/02(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3: 3:7-11 賛美 聖歌196
 神の御子が統治しておられる今日の神の家について「確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」と語って、すべて御子を信じるわたしたちこそそれであることを明らかにした。モーセが忠実に仕えた神の家、イスラエルは約束を受け継ぐのに失敗したように、キリスト者もまたその危険性をはらんでいることを踏まえ、警告を与えようとし旧約聖書を引用している。御言葉を引用するに当たり「聖霊がこう言われるとおりです」と語る。著者は聖書の御言葉を聖霊が語られることば、神の言葉として語っている。パウロも「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(?テモ 3: 16)」と語っている。それ故、御言葉は信仰をもって聞き、受け入れ、従うことを求めるのである。今日も御言葉に従って歩もう。
 

 

2012/4/03(火)担当 高谷満世師 サムエル記上15:1-16 賛美 聖歌392
 サウルはアマレクとの戦いに臨む。これはサウルが過去の戦争とは異なる聖戦であった。イスラエルの過去の歴史においても、聖戦では神が敵を滅ぼし尽くされるのだから分捕り品を持ち帰ることは一切許されていなかった。もちろんサウルの兵達は命がけで戦ったのだから、分捕り品という見返りを求めたであろう。サウルは両者の間に立って神の命令よりも民の要求に応えた。サウル自身も上等な分捕り品を惜しんだのであろう。これは明らかに神に背く行為であった。そこにサムエルがやってきた。サムエルはすでにサウルが不従順であったことを神から告げられていた。サムエルがサウルと向き合い、話をした時、サウルは自分の罪にまったく気づいていなかった(23節)。直接預言者から罪を指摘されてもなお、自らの罪に気づかないほど、サウルの心は主から離れていた。目の前にある富に心を奪われていたのであろう。
 神に選ばれたという事実はサウルが生涯罪を犯さず、神に背かないということを保証するものではなかった。主の僕であっても常に心を富に奪われることなく、神に向けていかなければならない。今日も主を見上げて主に従おう。
 

 

2012/04/04 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:7-11 賛美 聖歌596
 御言葉は「心をかたくなにしてはならない」と勧める。「心をかたくなにする」と言う言葉は神に対する不従順に対して用いられる言葉である。紅海において神による奇跡的な御業を体験し、神をほめたたえたイスラエルであったが、シュルの荒れ野に向かってそこを旅立って三日間水を得ることができなかった。やっとラマに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。その時民はモーセに向かって「何を飲んだらよいのか」と不平を言った。またシンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。その時民はモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言い「「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」言った。このように、人は偉大な神の御業を体験したとしても、試練に会う時、容易に心をかたくなにする。それは御怒りを引き起こす(新改訳)のである。私たちはそうであってはならない。偉大な信仰の先輩は「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ(詩 62:9)」と語っている。試練の時にも主を見上げて勝利しょう。
 

 

2012/04/05(木)担当 高谷満世師 サムエル記上15:17-35 賛美 聖歌399
 サウルは滅ぼしつくすべき戦いにおいて神の命令に背いて戦利品を獲ようとした。そして最初にそのことをサムエルから指摘された時にはまったく自分のした行為が分かっていなかった(15節)。そしてサムエルとの対話の中で自分の罪に気づいたが、その後も自分の罪の言い訳に、兵士が戦利品を取ってきたと語る(21節)。自分は正しいけれども、自分の周りに居た兵士が罪を犯したのだと語る姿は、絶えず他人に責任を転嫁しようとする人間の姿を思わせる。そのようなサウルに対して、神がもはやともに居られないとサムエルは語った。
 罪を犯していながらまったく気付いていない愚かな姿、また自分の罪に気がついても責任を他の人に転嫁しようとする姿。今日に生きる私たちもサウルと同じような性質を持っているかもしれない。自ら気付かないうちに神からはなれることがないように、常に主の御言葉に導かれて歩みたい。また、罪に気がついたなら、他人に責任を押し付けるのではなく、まず神に打ち明け、悔い改める者となりたい。
 

 

2011/04/06(金) 担当高谷清師 マタイによる福音書27:45−56   賛美 聖歌158
 今日は主が苦難を受けてくださったことを記念する受難日である。今読み続けているヘブライ人への手紙を離れて主の死を記した記事に目を向けよう。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」という文章を見て「神の御子が受けられた苦難のあまりのむごさに天が目をそむけた」と言う意味のことを語った人があった。御子の苦難のむごさと壮絶な死の中に、自らの罪の重大さと神の愛の偉大さを改めて思い知らされ、深い感謝に導かれるのである。心からの感謝をささげ、主の恵みの御業を褒めたたえよう。
 

 

2012/04/07(土)高谷清師 マタイによる福音書27:45−56   賛美 P&W1−53
主が十字架の上で息を引き取られた時「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」と記されている。「神殿の垂れ幕」とは聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕のことであろう。至聖所には大祭司が民の贖いのために年に一度だけ犠牲の動物の血を携えて入ることが許されていたのである。イエスの死によってその幕が裂けた事は、イエスの死を通して神に近づく道が開かれたことを示している。今や、私たちはイエス・キリストをとおして神に近付くことができるのである。