2014/10/27-11/1

2014/10/27 (月) 担当 高谷清師 ?コリ10:29−30 賛美 新聖歌 222
 パウロは先の節で、強い人、知識を持っている人にとっては偶像は存在しないものであり、従って偶像に供えられた肉を食べることは何ら差支えないことである。しかし、異教徒や偶像に関する知識を持たない弱い人々があなたに「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、それを食べてはいけないと告げた。「強い人」が偶像に供えられた肉を食べるのを異教徒が見たなら、彼はキリスト者が自分が神と信じる偶像を承認したとみるであろう。また、知識を持たない弱いキリスト者がそれを見たなら、その人をつまずかせることになるからである。私たちはキリストの贖いの恵みによって自由を与えられている者であるが、その自由の行使は他者への思いやりー愛によって規制されなければならない。しかし、そのことは私たちのキリストにある自由を制限するものではない。私たちに与えられているすべてのものは神の恵みによるのであり、感謝して受けるべきものである。

2014/10/28(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下7:1-10 賛美 新聖歌429
 神殿奉献の一連の行事の中で、最後に犠牲がささげられる。ソロモンが6章に記された祈りを祈り終えた時、その献げ物を主が受け取ってくださった。そして再び主の栄光が神殿に満ちた。まさにこの神が選ばれた場所に主の臨在が人々に認識される形であらわされたのである。主の栄光が再び神殿に満ちた時、人々の反応はどのようなものであっただろうか。彼らは決して主の臨在を凝視しながら喜びのあまり大さわぎを始めたのではなかった。主の栄光が満ち満ちている場所に祭司たちでさえ神殿に近づくことができなかったのである。人々はそのとき、かつてモーセが燃える芝の場面でしたのと同じように、顔を地に伏せて神を礼拝したのである。それは神が残虐な専制君主であったからではない。顔を地に伏せつつ、民は「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに。」(7:3)と賛美している。人々は聖なる偉大な神の臨在に触れて畏怖を感じたのである。恐怖ではなく、神に対して人間が持つべき怖れを表しているのである。
 主イエスの血潮によってあがなわれ、罪赦された私たちは神の前に出ることができる恵みに与っている。そして同時に神は神であり、私たちが畏れ、敬うべき方であること、神の聖は決して侵されないものであり、私たちが主への愛と怖れをもって神に従うべきことを再び覚え、歩もう。

2014/10/29 (水) 担当 高谷清師 ?コリ10:25-27 賛美 新聖歌 399
 続いてパウロは「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と語る。またコロサイの信徒への手紙においては「そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい(コロ 3:17)」と述べている。神は自分の罪のために死んでいた私たちを愛の故に、独り子を十字架につけ、その血潮によって贖い、生きるものにしてくださったのである。従って私たちの為す全てのことは、唯神の栄光を顕すためであるべきである。今日も神の栄光のために生きよう。

2014/10/30(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下7:11-22  賛美 新聖歌339  
 いけにえをささげて、ようやく神殿の奉献が終わった。その夜、主がソロモンに現われて語られた。それはソロモンの祈りに対する主の答えであった。ソロモンが祈った祈りを聞いて、主は飢饉や疫病の時に民が神殿で神の顔を求めるなら、すなわち神の前にへりくだって礼拝をささげるなら、その祈りを神が聞いてくださると約束を与えられた。この神殿こそ、ソロモンと当時のイスラエルの人々の共同体にとって、神に出会う場所であった。人々が心から悔い改めて神に祈るその祈りは聞かれるのである。15節で神が祈りに耳を傾けてくださると約束された後、まだ神のことばは続いている。そこにはダビデのように神の命令をことごとく行い、掟を守るならば、という条件が付いていた。そうするならば主はイスラエルの王座を存続させてくださるが、民が背くなら今建てられた荘厳な神殿ですらも人々のもの笑いとあざけりの的になるのである。
 このところで神は確かにソロモンの祈りに答えてくださった。しかし同時にその答えは民が神の前に生きる責任を再度自覚させるものであった。恵み深い主との歩みは、主に従う私たちに従順であることを求めるのである。

2014/10/31(金) 担当 高谷清師 ?コリ10:32-11:1  賛美 新聖歌 217
 パウロは「ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから」と語っている。主イエスもまた「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マコ 12:29-31)」と教えておられる。神が私たちに求められるのは私たちの全存在を通して神の栄光を顕すことであり、隣人を自分のように愛することである。パウロはそのように生きた。私たちもパウロの模範に倣って生きよう。

2014/11/1(土) 担当 高谷由紀子師 テサロニケ1 3:11-13 新聖歌24
この言葉はパウロがテサロニケ教会の人々のために神様に祈った祈りです。パウロは心の弱い人が強い心人となるようにと祈りました。人の心は変わりやすく、誘惑に負けやすいものです。正しいことがいつもできる心の強い人になるように願いました。そして人に対して憎しみや妬みや悪意を持たない純真な、清い、美しい心の持ち主になることを求めました。この心は12節に書かれているとおり、神を愛し、人を愛することから生まれるのです。また、これらのことは神様の御前にあって聖霊の助けによって得られるものです。クリスチャンの品性は祈りによって実を結ぶことができるものです。”,,1118″