2018/10/8-13
- 2018.10.08
- ディボーションの友
2018/10/8 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10: 10-11 賛美 新聖歌 225
イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語られる。ダビデは「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」(?サム17:34-36)と語っている。良い羊飼いであったダビデは命を懸けて羊を守ったのである。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(?ヨハ1:7)と述べている。イエスは私たちの罪を清め、救うために命を捨ててくださったのである。
2018/10/9(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書39:1-14 賛美 新聖歌170
ついにエルサレムが陥落するときが来た。エレミヤは何度もこのことを告げてきたが、人びとはエレミヤを通して語られる神の言葉に耳を傾けなかった。ゼデキヤ王も何度もエレミヤとの会見を重ね、そのたびにバビロンに降伏することが神の御心であると聞いてきたが、彼自身の決断力のなさと高官を恐れる心の故に最後まで神の言葉に聞き従わなかった。神は滅びを目前にした人々に対して明確にその罪を指摘し、救いのために神に従う道を示された。しかし皆それぞれの言い分を主張して従わない。最終的に彼らに臨むのは主のことばの成就である。神の言葉の通りエルサレムは滅ぼされた。ゼデキヤは捕えられた。神は憐れみの故に、罪びとに対してでも間近に迫る裁きを警告し、救いの道を備えられる。それを受け取るか否かは聞いた人の応答次第である。
私たちは神に対してどのように応答しているであろうか。喜ばしいメッセージだけを受け取り、悔い改めを迫る言葉は無視していないだろうか。神が従順であれと語ってくださる間に神に従おう。
2018/10/10(水) 担当 高谷清師 ヨハ10: 12-13 賛美 聖歌 502
ここでイエスは羊飼いと自称するが、自分の羊を持たない雇い人について語られる。彼は託されている羊が自分のものではないので狼が来ると、危険が迫ると、また羊を飼うことによって自分の上に不利が降りかかりそうになると羊を捨てて逃げ去る。彼が心にかけているのは羊のことではなく、自分のことだからである。まことの羊飼いは羊のために命を捨てられたイエスご自身である。そしてよい羊飼いはイエスの心を自分の心として羊を愛する者である。ぺトロは「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(?ペト5:1-3)と述べている。各々が聖霊の導きを求めつつ判断しょう。
2018/10/11(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書39:15-18 賛美 新聖歌248
エベド・メレクはかつてエレミヤがユダの高官たちの手によって監視の庭にある水だめに投げ込まれて命を落としそうになった時にエレミヤを助けた人である(38:7-13)。39章ではエルサレムが敵の手に落ちた時にゼデキヤ王が経験した周りの人々の死と自身のバビロンへの連行とが記されており、それに続いてエベド・メレクの救いの約束が語られている。エベド・メレクはバビロンと戦い破滅へと突き進んでいく時代のうねりの中にあって預言者の苦境を目の当たりにし、大胆にも優柔不断な王に願い出てエレミヤを助けた。大きな時代のうねりの中で彼の行動はこの国の神への不従順を変えるほどの影響力は持たなかったが、この小さな信仰の行為を神は見ておられた。そして彼に国の混乱と滅びとの渦中で救いの約束が与えられた。
大きく時代が変わり、一人の正しい行動が社会に何の影響も及ぼさないだろうという希望が見えない中でも、神は正しい一人の行動を見ておられる。そしてその信仰に報いてくださる。あらゆる状況において正しく歩むことの大切さをここに見ることができる。
2018/10/12(金) 担当 高谷清師 詩 39:6-8 新聖歌 302
詩人は「御覧ください、与えられたこの生涯は/僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも/すべて空しいもの。〔セラ ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし/だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。」と詠う。小畑進師は日本文学における人生の虚しさを語るものとして『徒然草』の一段「蟻のごとくにあつまりて、東西に急ぎ、南北にわしる。高きあり、賎しきあり、老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕にいねて、朝に起く。いとなむところ何事ぞや。生を食り利を求めてやむ時なし。身を養ひて何事をか待つ。期する所、ただ老と死とにあり、その来ること速やかにして、念々の聞にとどまらず。これを待つあひだ、何のたのしびかあらむ。まどへるものはこれをおそれず。名利におぼれて先途の近きことを顧みねばなり。愚かなる人は、またこれを悲しぶ。常住ならむことを思ひて、変化の理を知らねばなり」(第七十四段)。」(小畑進 詩篇講録上P511−512いのちのことば社2007))という文章を引用しておられる。人は自己の存在を示そうとしてあくせくする。しかし人の存在は永遠から見る時、一瞬でありすべての労苦は空しい。私たちの存在を意味あらしめるもの、それは神だけである。
2018/10/13(土)担当 高谷由紀子師 マコ 6:17-29 賛美 新聖歌 459
ヘロデは自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しょうとしたときバプテスマのヨハネに「あの女と結婚することは律法で許されていない」と指摘されたことに腹を立て、ヨハネを捕らえさせ、牢につないでいました。ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいました。ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからでした。ヘロデが、高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて自分の誕生日の祝いの宴会を催した時、ヘロディアの娘が踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせました。ヘロデは娘に「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言いました。娘はヘロディアにそそのかされて「洗礼者ヨハネの首を」と言ったのでヘロデは当惑し、非常に心を痛めましたが、自分の体面を保つため、娘の要求を聞き入れました。ヤコブは「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコ 1:15)と述べています。人の歓心を買おうとするなら、真理に歩むことはできないのです。”,,537″
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