2012/9/24-29

 

2012/09/24(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:18-22  賛美447
 著者は古い契約が血を流されることによって成立したことを示し「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」と語る。旧約聖書には「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである(レビ 17:11)」と述べられている。歴史上、多くの人々が救いについて語って来た。彼らは難行苦行を行い、あるいは思索を深め、悟りを開くことによって、救いが得られると説いてきた。しかし、命は命によってのみ贖われる。わたしたちに罪の赦しを与えるのは十字架上に流されたイエスの血だけである。
 

 

2012/09/25 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下10:1-19 賛美 聖歌544
 ダビデはアンモン人の王ハヌンが即位したときに真心から使節を遣わしたが、ハヌンはダビデの意図を疑ってその使者のひげを半分そり落とし、衣服をも切り落とすという辱めを与えた。ダビデはこのことを受けてすぐさまハヌンに兵を差し向けた。
 その兵を率いていたのはヨアブとアビシャイの兄弟であった。この戦いは彼らの同胞が辱めを受けたことに対する報復の戦いであった。イスラエルの兵たちは同胞がこのような辱めを受けて怒りに燃えていただろう。しかしヨアブは戦いに行く前にアビシャイに対して「我らの民のため、我らの神の町々のため、雄雄しく戦おう。主が良いと思われることを行ってくださるように。」と語っている。このような感情的になりやすい状況にあっても、戦うのは主のためであり、また主が最善をなしてくださるという信仰を表している。
 私たちは感情的になると思慮を欠いた行動を起こしやすい。まさに神に喜ばれないことをしてしまう危険が高い。どんなときにも主を第一にしよう。
 

 

2012/09/26 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:23-28 賛美 聖歌447
 天にあるものの写し―地上の聖所―は犠牲の動物の血によってきよめられ、神礼拝に備えられた。そのような儀式的なきよめも、それなりに真実で、効果的なことを著者は否定しないが、しかしこの種の外的きよめが内的、霊的な汚れを取り除くのにも有用であり得るとは認めない。それらは霊的実体の模型にすぎない。霊的実体そのものが問題とされる場合には、さらに優れたいけにえや、より効果的なきよめが用意されねばならない。霊的きよめが必要なのは、神の民たちなのである。「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる」(エフェ 2:22)ためである。そのためにはさらに優れたいけにえが必要である。罪も汚れもないキリストが罪人のためにご自身をささげ、血を流し、それによってわたしたちの霊的、内的きよめを成し遂げてくださったのである。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます(?ヨハ1:7)」と述べている。
 

 

2012/09/27(木)担当 高谷満世師 サムエル記下11:1-27 賛美 聖歌481
 ダビデはある日、バト・シェバが水浴びをしているところを見た。彼女が既婚の女性であると知りながらも、ダビデは誘惑に勝つことができず、姦淫の罪を犯してしまった。さらに悪いことには、その結果バト・シェバが子を宿したと知ると、何とか罪をごまかそうとして夫ウリヤを戦線から引き戻して自宅に帰らせようとした。それも失敗に終わったとき、ダビデは秘密裏にウリヤを戦死に見せかけて殺してまで自分の罪を隠そうとした。ダビデは王として絶大な権力を持っていた。自分の小さな罪を人の目から隠すために国中の秀でた者たちを自由に利用することができた。事実、このときダビデはヨアブを利用して自分の罪を隠した。ダビデの対処によって彼は人の目をうまくごまかすことができた。
 これは聖書を読む信仰者にとってかなりショックの大きい出来事である。あれほど神に従順で正義を求めてきたダビデが、いとも簡単に誘惑に負けて罪を犯すだけではなく、恐ろしいはかりごとをめぐらして人の目から自分の罪を隠そうとした。ダビデだけではなく私たち自身を含めて人間の持つ弱さがここに垣間見られる。決して完璧ではない私たちが神の前に常に正しくあるためには何が必要なのだろうか。
 

 

2011/09/28(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:23-28    賛美 聖歌578
 著者は「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と述べている。文脈から離れるかもしれないが、重要な事柄であるので考察してみたい。日々報道される痛ましい事故による死、東日本大震災のような天災による死、種々の病によって医師から余命○か月と宣告され、訪れる死と、訪れ方にはいろいろあるが、死は必ず訪れるのである。そしてその後に裁きを受けることが定まっているのである。このさばきについて主イエスは「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける(マコ 16:16)」と語っておられる。これは甦られた主が弟子たちを宣教に派遣する際に語られた御言葉である。異教世界に住む私たちは日々ノンクリスチャンと共に生きている。彼らと談笑し、チームを組んで働いている。しかし突然訪れる死と裁きにおいて彼らが滅びの宣告を受けることを思い、そのために執り成しの祈りをささげ、御言葉を伝えているだろうか。主は「しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める(エゼ 33:6)」と語っておられる。御言葉を厳粛に受け止め、滅びゆく人々に福音を証しよう。
 

 

2012/09/29(土)高谷由紀子師 ペトロの手紙?5:5 賛美 聖歌296
 ペトロは教会において信徒は互いに謙遜であるようにと教えました。謙遜を、衣服を身にまとうように常に一人ひとりが身につけているようにと勧めています。特に若い人は年長者を敬い、へりくだった思いで従うように諭しました。人は自分を誇り、高慢に陥りやすい存在です。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」と記されています。水が高いところから低いところに流れるように、神の恵みは自分を低くしてへりくだった者に注がれるのです。クリスチャンは互いに謙遜になって神様からの恵みに満たされて歩みたいものです。