2012/10/1-6

 

2012/10/01(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9: 23-28  賛美 聖歌425
 「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と述べられていることについて更に考察を加えてみたい。先日「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける(マコ 16:16)」と言う主イエスの言葉を引用した。更に聖書には「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです(ヘブ 9: 22b)」と述べられている。死の後に受ける裁きにおいて神に受け入れられるのは、即ち救われるのは主イエスが十字架上で流された血は、自分の罪のためであったことを認め、キリストを救い主と信じるか否かによるのである。それ故聖書は「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです(使 4: 12)」と述べている。世には多くの宗教があり各々はそれを信じる人々にそれなりの心の平安をもたらしていることは認めるところであるが、それが死後すべての人が否応なく立つ神の裁きの座において神に受け入れられるか否かは別である。重ねて言うが「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」のである。未信の方々、キリストの贖いの恵みを受け入れようではありませんか。
 

 

2012/10/02 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下12:1-12 賛美 聖歌511
 ナタンがダビデを訪れてひとつの物語を語った。それを聞いたとき、ダビデは激怒し、自分の有り余る財産を惜しんで貧しい男から財産を奪った豊かな男に激怒した。ダビデはこのように神の前に何が正しいことかを知り、また自らの罪を認めることができる人であった。さらに、裕福な男に激怒するダビデに対してナタンが実はその男はダビデであることを面と向かって指摘し、逃げる余地を与えなかったとき、ダビデは素直に自らの罪を認めて悔い改めることができる人であった。
 人間には人の目から隠しておきたい失敗や過ち、さらにはっきりというならば神の目からも隠しておきたい罪がある。多くの場合、思いもかけぬときに予想しない方法で突然意外な人から罪を指摘されると、それをさらに隠し通そうとしたり、あるいは居直って罪を認めないということがしばしばある。
 罪を認めて悔い改めることはたやすいことではない。しかし神との正しい関係は、もしも罪をおかしてしまったならばまず罪を認めて神に告白することから回復が始まる。私たちのうちに罪はないだろうか。深く自分自身を省み、赦してくださる神を信じて告白し、悔い改めよう。
 

 

2012/10/03 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:27-28 賛美 聖歌 437
人間は、神の定めにより一度死に、死後裁きを受ける。キリストも神の定めにより一度死なれたが、その死は民のため救いをもたらした。それは、死において、キリストは「多くの人の罪」を負い、彼らのための贖いとして神にご自身を献げられたからである。イザヤは「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。(イザ 53:10-12)」と預言した。それは御子の死において成就されたのである。
 

 

2012/10/04(木)担当 高谷満世師 サムエル記下12:1-12 賛美 聖歌543
 ダビデはウリヤから妻を奪い、姦淫の罪を犯し、さらにウリヤを殺した。ダビデは誰に謝罪しなければならないのだろうか。罪を白状して誤らなければならないのだろうか。社会生活上、ダビデはウリヤとバト・シェバに対して悪を行った。二人に謝罪をする必要があることは明白である。私たちも日常生活において他者に損害を与えたとき、その責任を問われ、被害者に謝罪しなければならない。しかしここでナタンが指摘していることは少し異なる。確かにナタンが罪を犯したことを的確に指摘した。しかしそれは二人に対して悪を行ったというのではなく、ダビデが神を侮り、罪を犯した(10節)と言っている。確かにウリヤとその妻に被害を与えたことを指摘しながら、核心部分ではダビデに恵みを与え続けてこられた主を侮り、主に罪を犯したと語っている。
 人の目をごまかし、人の赦しを得られたらそれで十分なのではない。常に私たちは主の前で主の御言葉に従って歩んでいる。常に神の前に正しく、神に喜ばれる生活をしよう。
 

 

2011/10/05(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:27-28    賛美 聖歌622
 「二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」と記されている。主は最初の来臨において多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げ贖いの御業を成し遂げてくださった。そして御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために再び現れてくださるのである。キリストを救い主と信じる者たちは確かにキリストの贖いの御業によって罪赦されて喜びの歩みをしている。しかし私たちは罪の支配する世に在って多くの戦いを強いられ、苦難の中にある。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハ 16: 33)」と言われているとおりである。勝利者キリストが再びおいでくださる時、わたしたちの救いは完成されるのである。その時を待ち望みつつ忍耐をもって信仰を守り抜こう。
 

 

2012/10/06(土)高谷由紀子師 ローマの信徒への手紙 1:16-17 賛美 聖歌503 パウロは『福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです』と述べています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた(創 15:6)」と記されているとおり、アブラハムが義とされたのは彼の行いによってではなく信仰によってでした。ダビデは行いによらずに神から義と認められた者の幸いについて「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。(詩 32:1-2)」と歌っています。わたしたちは自らのよい行いによっては、神様から義とされることはできないのです。わたしたちが義とされるのは私たちの罪のために十字架に架かってくださった主を信じる信仰によってだけです。