2021/7/5-10

 2021/7/5(月) 担当 高谷清師 コロ2:16-23 賛美 新聖歌 338

 パウロはコロサイの聖徒たちを虜にしている教え「手をつけるな。味わうな。触れるな」について「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。」と述べている。村上伸師は「熱心な礼拝・謙遜な物ごし・禁欲的な苦行・飲食の節度。こういったことは、ふつう世の人々が宗教というものを評価する際の普遍的な目安になっているものである。(中略)幻を見たというような常人とは一風変わった「宗教的」体験も豊かである。これらすべては、その宗教を説得力あるものにしている。」(説教者のための聖書講解No4344日本基督教団出版局1983)と述べておられる。今日の日本においてもそれらは多くの人々の関心と称賛を集める。それらは一定の修練をもたらすかもしれない。しかし救い―罪の赦しと永遠の命を与えることはできない。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と記されているとおりである。

 

2021/7/6(火) 担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書3:6-8 賛美 新聖歌427

 ここでは預言者ではなく、神が直接語られている。神はエルサレムだけではなく諸国の民を滅ぼし、城壁も町も荒廃させられた。この事実を前に人々は神がこのようなことをなさったということに驚き、困惑するかもしれない。しかし神はなおも民に対して期待を持っておられた。それはこれほどの神の裁きを見るならばついに民は神を認め、畏れて神の戒めに従うであろうという期待であった。まさに民の悔い改めと忠実を期待された。それでもなお罪に留まる民を見られた神はさらにこれから先に注がれる裁きを待てと言われる。

 神の厳しさと義を貫かれる故の裁きと災いという現実がいつでも起こりうることを私たちは正面から受け止められるだろうか。神に期待するのは愛と赦しだけであろうか。神に対して人が不従順に歩むときに神は厳しい現実をもって警告し、立ち返れと呼びかけてくださる。このような警告を経験するようなときに、目を開かれて神に立ち返ることができるよう願い、またそれ以前にこのような警告を受ける必要がない信仰生活を求めよう。

 

2021/7/7(水) 担当 高谷清師 コロ3:1-4 新賛美 聖歌 399

 先にキリスト者はキリストと共に死んだ者であると語ったパウロは、この箇所においてはキリストと共に復活させられた者であると語る。私たちの主イエスはわたしたちの全ての罪を負って十字架に架かり、血を流し、死んでくださった。そして三日目に死に勝利して復活された。このイエスを信じる者はキリストの死の与り、罪に死に、キリストの復活に与り、復活させられたのである。復活されられた御国の王は神の右の座に着いておられるキリストである。第二次世界大戦中、リトアニアの在カウナス日本国総領事館に赴任していた杉原千畝はナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民のために大量のビザを発給し、避難民を救出した。ナチス・ドイツ政権の支配地から離れて他の政権支配下に移った者に対してはナチス・ドイツ政権の支配権は及ばない。同様に王なるキリストの御国に入れられた者には「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」(エフェ 2:2)の支配は及ばない。私たちの従うべきはキリストの言葉である。

 

2021/7/8(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書3:9-13 賛美 新聖歌359

 神の徹底的な裁きが終わった後に待っているのは何だろうか。それは神の御業による回復である。9節では神ご自身が諸国の民に清い唇を与える。イザヤ書6章を思い起こす。神ご自身が罪深い者たちに対して清い唇を創造し、与えてくださる。これによって民は再び主を賛美し、礼拝することができるようになる。神の恵みにより新しく造り変えられた人々はへりくだり、悪から離れ、主に平安を見出す。

 神はご自分が造られた人間と世界を深く愛される。人々に裁きを通して悔い改めを求められる。それでも悔い改めることができない人々を神は見捨てることはなさらず、新たに造り変えて清い唇を与えて下さる。だからこそイスラエルに残りの者が与えられた。私たちが神の赦しの中に生かされているのは私たちの意志と決断と功績によるのではなく、神の憐れみの御業による。深い愛を感謝しよう。

 

2021/7/9(金) 担当 高谷清師 詩 62:11  賛美 聖歌 196

 神の視点に立って事物と人間の、わけでも自分自身の根本を究明することを求め、隠し立てや自己欺瞞をしないで人生をあるがままに、あからさまな現実の中で直視した詩人は「人の子らは空しいもの。/人の子らは欺くもの。/共に秤にかけても、息よりも軽い。」と詠った。この視点に立って詩人は「暴力に依存するな。/搾取を空しく誇るな。/力が力を生むことに心を奪われるな。」と警告する。パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(?コリ 15:50)と述べ、更に「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(?コリ 4:18)と述べている。また地上の事象を見極め、空しさしか見出さなかったコヘレトは「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて」(コヘ12:13)と述べている。

 真に人を生かすもの、それは神の言以外にはない。

 

2021/7/10(土) 担当 高谷清師 コロ3:1-4 賛美 新聖歌 344

 キリスト者とは「キリストと共に復活させられた者である」と語ったパウロは「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」と語る。パウロはユダヤ社会において趙エリートであり、神に対して熱心な者であると自負していた。ユダヤのキリスト者迫害に目途を付けた彼はダマスコにいるキリスト者迫害のために道を急ぐ途上、復活のキリストに出会い、捕えられ、回心しキリスト者となった。それによって彼は真に求めるべきものを知った。彼は「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ3:4-9)と述べている。キリストの復活に与った私たちが真に求めるべきものは「主キリスト・イエスを知ること」である。