2012/6/4-6/9

 

2012/06/04(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:5-6 賛美 聖歌545
 大祭司職について述べてきた著者はここから大祭司キリストについて述べる。アロンと同じように、キリストも大祭司職を自分で得たのではなく、神によって任じられたのであることを証しするため、『主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。(詩 2:7)」』を引用する。主もまた『わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っているヨハ 8:54)』と述べておられる。このように私たちの主イエスは神によって任じられた、それ故、完全に神に受け入れられる大祭司である。従ってイエスの御名によって神のもとに行くものは決して拒まれることがないのである。
 

 

2012/6/05(火)担当 高谷満世師 サムエル記上23:15-28 賛美 聖歌 604
 ダビデの苦しい逃亡は続いている。サウルの手から逃れて山地に身を隠しているダビデは心身ともに疲れきっていただろう。ダビデが必死で逃れようとしても、サウルの側についてダビデの居場所をサウルに密告するものも居た。「神に従っているのになぜこのようなことが起こるのか」、「本当は私は神に背いているのだろうか」とダビデの信仰が揺らいでも無理からぬ状況であった。その時に神はダビデの友、ヨナタンを送ってくださり、ダビデを励まされた。そのような、時を得た励ましに支えられて神を信じ続けたダビデは、絶体絶命の状況でサウルの手から命を救われた。
 時としてあまりに苦しい状況の中で自分の信仰に疑いを持つことがある。「神を信じて従がっているならこんな苦境に陥ることはないだろう。自分の信仰は間違っているのではないだろうか」そんな疑問が沸き起こってくることがある。そんな時に神は私たちを励ましてくださる。

 

2012/06/06 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 5: 5-6 賛美 聖歌 555
 続いて著者は詩篇『主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(わたしの正しい王)。」(詩 110:4)』を引用してキリストの祭司職のアロンのそれに対する優越性について述べる。メルキゼデクについては7章において詳しく記されているので、その箇所で学ぶことにしたいと思う。ただ、アロンの祭司職は継承されていかなければならなかったが、キリストは永遠のお方であるのでその祭司職もまた永遠である。またキリストは完全なお方であるゆえ、その祭司職もまた完全である。
 このようにわたしたちの主は永遠にして完全なお方である故、わたしたちが神のみ前に出るためにこのお方以外の仲介者を一切必要としないのである。わたしたちに罪の赦しを得させるために十字架に架かり、血を流し、命を捨て、甦り、天に昇り、神の右の御座につき、今も私たちのために執り成していてくださるキリストによって神の前に出ることができるのである。
 

 

2012/06/07(木)担当 高谷満世師 サムエル記上24:1-23 賛美 聖歌 511
 ダビデにとっては千載一遇のチャンスである。サウルはダビデが潜んでいるとも知らず、ダビデが居る洞窟に入ってきて用を足していた。ダビデの至近距離でまったく無防備になっていた。神に従っているダビデは、神に背いているサウルの命を狙うことができた。また、ダビデ自身が直接サウルに対して報復する絶好の機会でもあった。サウルに不当に命を狙われて逃亡する生活から解放されるチャンスであった。しかし、ダビデは自らサウルに手を下すことを選ばなかった。ここでもダビデはサウルへの報復を神の手にゆだねた。
 ようやくこれまでの不当な苦しみに終止符を打てる。ましてその機会は神が与えてくださった御心にかなうものであると考え得る状況でもダビデは神の油注ぎの重みを知り、神の主権を知っていたがゆえに自らの思いのままに行動することを慎んだ。私たちもこのような状況におかれたとしても神の主権を認め、主に喜ばれる歩みをする者になりたい。
 

 

2011/06/08(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:7-10 賛美 聖歌295
 メルキゼデクについて記した著者はここで突如、イエスの地上生涯へわたしたちの目を向けさせる。メルキゼデクは我々に謎に包まれた部分の多い神秘的人物という印象を抱かせる。しかしキリストは現実にわたしたちと同じ地上を歩み、わたしたちの体験する同じ苦難を味わってくださったお方であることを確認させている。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と言う言葉はゲッセマネの祈りを想起させる。主は汗が血の滴るように地面に落ちるほどに熱心に、切実に祈られた。そして著者は「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と述べている。実際主が願われた杯―十字架は主の前からは取り除かれなかった。しかし著者は「聞き入れられました」と述べるのである。それは主の神に対する敬虔によって神の御心を受容されたこと―「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との祈りへと導かれたことである。
 わたしたちの祈りが聞き入れられるというのは、私たちの願いがその通り実現することを意味するものではない。より深い神の御心が示され、わたしたちがその御心の受容へと導かれることである。
 

 

2012/06/09(土)高谷由紀子師ルカによる福音書10:25-28 賛美聖歌393
 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と律法の専門家が質問した。これに対して主は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と答えられました。主イエスは全世界の人々を愛して、その救いのために十字架についてくださいました。この主が隣人を自分のように愛しなさいと教えられました。私たちが会ったこともない世界中の人々ではなく、あなたのそばにいる人を愛しなさいと言われました。私たちは家族、近隣の人々、学校、職場と多くの人と関わって生活していますが、それらすべての人々が隣人です。遠くにいる人々ではなく、自分のそばにいる身近な人を愛することが求められています。
 理想論ではなく、実際に助けを必要としている身近な人を、口先だけではなく行いをもって愛する人になりたいものです。