≪デボーションの友≫2023/4/10-15

2023/4/10(月) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:1-11  賛美 聖歌(総)151 聖歌 196

 パウロは「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」と語った後、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と語る。パウロはその伝道生涯において多くの書簡を記し、それをもって教会を指導した。その書簡が聖霊の導きによって聖書に収録され、今日私たちが手にしているのである。しかし、パウロが伝えたものはパウロの創作ではなく、彼自身が受けたものであった。彼はそれを教会から、教会はイエスご自身から受けたのである。11:23では「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と述べている。ペトロは「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです」(Ⅱペト 1:20)と語っている。私たちは神の言葉を教会の教えに従って正しく解釈して健全な信仰生活を送るべきであって、自分勝手な解釈によって信仰の破滅を招いてはならない。

2023/4/11(火)担当 ラウジー満世師 創世記35:1-8 賛美 聖歌総合版127 聖歌172

 シケムでの出来事の後、ヤコブはベテルに移って祭壇を築くよう神から語られた。神の言葉にある通り、これはヤコブが若き日の兄からの逃亡に際して神がヤコブに夢で現れて共に居ることを示してくださった特別な場所であった。その場所にこの神のために祭壇を築き、礼拝し、神と共に歩むことを再確認するよう語られた。ヤコブはこの招きに応えるが、その際まずは自分たちがパダン・アラムから持ち帰った異教の神々を捨てて身を清めた。真の神の臨在の場所に入り、神に仕えて生きることは同時に他の偶像に対する関係を断ち切ることであった。ヤコブとその家族は全ての偶像を捨て去り、旅の間ずっと共に居て下さった神への献身を明確にした。

 天地を造られた真の神を信じているが、保険のため、あるいは人間関係に波風を立てないために今までの宗教も形としては残しておこう、という誘惑はとても強く、私たちに付きまとう。しかしただ真の神だけを礼拝し、全き献身を示すことは主の恵みの内に成長するためには不可欠である。

2023/4/12(水) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:1-11  賛美 聖歌(総)465 聖歌 453

 続いてパウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」と語っている。私たちの信仰において最も大切なことは、キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したことであると言う。これらのことは「聖書に書いてあるとおり」に起こったのである。パウロが本書を執筆した当時、新約聖書はまだ成立していない。従ってここで言う「聖書」は旧約聖書である。キリストの死と葬り、復活は旧約聖書で預言されたいたとおりに起こったのである。「旧約聖書で預言されたいたとおりに」と言うのは「神の御心によって」である。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)と語っている。キリスとの死と葬り、復活は神の御心によってなされたのであり、それは神の愛によるのである。感謝しょう。

2023/4/13(木)担当 ラウジー満世師 創世記35:9-15 賛美 聖歌総合版538 聖歌520

 ヤコブと家族はベテルの地に帰った。かつてこの地を去る時にヤコブに現れた神は再び彼に現れて祝福を更新してくださった。かつてアブラハムとイサクに与えられた約束と同様に子孫が増え広がり、ヤコブから国々が興り、土地を与えるとの約束まで与えられた。族長たちに受け継がれてきた神の選びと祝福と約束はヤコブにしっかりと引き継がれている。さらにこれは三代目の族長への約束に留まらない。ヤコブの名がイスラエルと改められることによって、ヤコブの子らがそれぞれの部族となって形成されるイスラエルの民へとこの選びは引き継がれていく。ヤコブはこの祝福と約束を受け取り、神への礼拝をささげて応答する。

 神は真実なお方である。民を選び、神の計画を前進させ、選んだ者を様々な経験を通して信仰において成長させてくださる。神の恵みのゆえに私たちは主と共に歩み、恵みの中で生かしていただいている。共に歩み続けて下さる主に感謝しよう。

2023/4/14(金) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:1-11 賛美 聖歌(総)402 聖歌 402

 パウロは「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」と記している。イザヤは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(イザ 53:3-6)と語っている。ペトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と語っている。罪ある者は他の罪人の罪を負うことはできない。罪の無い神の御子だけが他者の罪を負うことがおできになる。罪の無い神の御子だけが世の全ての罪を負って十字架に架かり、血を流し、死んでくださることによって私たちすべての救い主となってくださったのである。

2023/4/15(土) 担当 高谷清師 Ⅰコリ15:1-11  賛美 聖歌(総)398 聖歌 398

 パウロが最も大切なこととして伝えたことの第二は「葬られたこと」である。このことについて竹森満佐一師は

「キリストが葬られた、ということを、なぜ、わざわざ書かねばならなかったのでしょう。死んだ者を葬るのは、当然のことと思われるからであります。しかし、葬るということが言われなければ、その死が、ほんとの死であったかどうか、はっきりしないのではないでしょうか。キリストの死があまりに不思議なために、いろいろな臆説が生まれました。その死がほんとうの死ではなかったのではないか、ということであります。ことに、死ののち三日にして、復活せられたということが伝えられると、その死そのものが、ほんとうではなかったのではないか、と考える者も出てきたのであります。その時に、葬られるということが重要なことになってきます。キリストの死は、死んだように見えた見せかけのものではなくて、死んで葬られたものである、ということであります。それならば、葬られたということは、死を完全なものにするとともに、復活に対する大切な伏線になります。キリストの死と復活とを結びつけるものになるともいえるかも知れません。」『講解説教・コリント人への第一の手紙P553』新教出版社1988) と述べておられる。「葬られたこと」という記述はキリストの死に確証を与え、私たちの罪が取り除かれたことを宣言する。