≪デボーションの友≫2023/4/3-8

2023/4/3(月) 担当 高谷清師 マル16:1-8  賛美 聖歌(総)629 聖歌 591

 イエスが捕えられると「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マル 14:50)しかし、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた婦人たちはイエスの十字架の下に佇んでその最後を見届け、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。安息日の始まりの時間が迫る中、あわただしく葬られたイエスの遺体には十分な処置を施すことができなかった。婦人たちは安息日が終わるのを待ってイエスに油を塗りに行くために香料を買い、夜明けを待った。東の空が白み始めると婦人たちは墓に向った。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら道を急いだ。墓について見ると石は既にわきへ転がしてあった。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」この言葉を聞いた婦人たちは震え上がり、正気を失い、恐れ、墓を出て逃げ去った。

 死を打ち破り、死人を甦らせる―それは神の御業である。神に会う時私たちの心に恐れが生じる。しかし、その恐れは畏れとなり私たちに新しい道を開く。

2023/4/4(火)担当 ラウジー満世師 創世記34:1-24 賛美 聖歌総合版399 聖歌399

 ヤコブの家族はカナンの地に戻り、シケムの近くに住んでいた。カナンの地に定着する時には様々な難しさがあったが、彼らはこの土地で生きていくために努力を重ねていた。そんな時にその土地の首長の息子シケムによってヤコブの娘が辱めを受けた。シケムは父ハモルと共にヤコブを訪れ、娘ディナとの結婚を申し入れ、同時に町の中に共に住まうことを提案した。ヤコブの息子たちがこれを受け入れる条件はシケムの町がイスラエルの民同様に割礼を受けるという信仰において大切なことであった。一方シケムの人々は割礼を受け入れるが、彼らにとってはヤコブの一族を取り込んで町に利益をもたらすための手段でしかなかった。割礼によって神を信じて神に仕えるという姿勢はなかった。形式に従えば利益を得るのであれば、その心や信仰は全く意に介さないという人々と共に生きていくことになるヤコブ一族の今後の苦労が思われる。

 現代でもキリスト教的スタイルは受け入れるが、その信仰は拒否する以前に考えることは思いも及ばないという社会の中で多くのクリスチャンは生きている。信仰を同じくする人々がわずかな社会において私たちがどう生きるか、常に神に問い、しっかり考えて主に従おう。

2023/4/5(水) 担当 高谷清師 マル16:1-8  賛美 聖歌(総)123 聖歌 168

 白い長い衣を着た若者が語った「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」と言う言葉こそ私たちの喜びであり、希望である。パウロは「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Ⅰコリ15:16-20)と語っている。復活された主を喜び、賛美し、命の道を歩もう。

2023/4/6(木)担当 ラウジー満世師 創世記34:25-31 賛美 聖歌総合版402 聖歌402

 シケムの人々が割礼を受けた後、シメオンとレビは思わぬ行動に出る。彼らは傷の癒えない住民を剣で襲い、命を奪い、略奪までした。もともとはディナに対する辱めに起因することであったとしても、二人は自分の手で報復することを選び、様々な罪を重ねた。さらに深刻なことは、アブラハムの子孫にとって大切な割礼という信仰の行為を利用したことである。感情的に復讐し、暴力をもって襲うならば、暴力の連鎖を生む。さらにその目的達成のために信仰をも利用し、蔑ろにするなど、心から神を愛し、信頼し、導きに従う者にとっては決して許されないことであった。

 神に従う信仰の表明としての大切な行いを、感情と肉の思いを満たす道具として利用することはあってはならない。同じ罪に陥ることがないよう、いつも神を見上げ、主の御心が成るように願い、裁きを神の御手に委ねて私たちはどんなときにも主を見上げて正しく歩もう。

2023/4/7(金) 担当 高谷清師 マル16:1-8  賛美 聖歌(総)488 聖歌 471

 白い長い衣を着た若者は「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」と語っている。ここで主は「弟子たちとペトロに」と、弟子の一人であるぺトロを名指ししておられるのである。ペトロは常に弟子たちの中において代表格の存在であり、ゲツセマネにおいてはヤコブ、ヨハネと共により近く伴われた者であった。しかしゲツセマネでは主の「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」という言葉にも関わらず眠り込み、大祭司の屋敷では三回にわたってイエスを知らないと言い、呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。更に、十字架の下にも、葬りの場にもいなかった。安息日の翌日にも墓に来ることはなかった。主がぺトロを名指ししてくださったことによってぺトロは、そのような不真実な自分に対しても真実でいてくださる主を知ったのである。パウロは「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(Ⅱテモ 2:13)と語っている。常に真実でいてくださる主に信頼と感謝をもって従おう。

2023/4/8(土) 担当 高谷清師 マル16:1-8  賛美 新聖歌 18

 ぺトロは「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」(Ⅰペト 1:21)と語っている。この箇所について竹森満佐一師は

「いくたびとなく、失敗し、そのつど、自分は、駄目だ、と思ったにちがいないペテロが、何によって、望みを持ったか、をこの聖句は、まことに、よく、記しているのであります。ペテロにとっては、望みのもととなるものは、神であります。自分の信仰と望みとは、神にかかっているのであります。しかし、なぜ、神にかかっているのでしょう。それは、キリストを信じるからでありますが、また、神がキリストを、死人の中から、よみがえらせたからであります。キリストは、自ら、よみがえったのではなく、神が、よみがえらせたのである、と聖書は、申します。それだからこそ、この神に、望みをおくことができるのです。(中略)それによって、復活を信じさせて下さったからであります。神が、キリストをよみがえらせたのは、それによって、キリストの救いを完成させられたことでありますが、それは、同時に、キリストの復活を、人間に信じさせるためであります。」『わが主よ、わが神よ一P432-433』教文館2016)

と述べておられる。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリ2:6-11)と語っている。御名を賛美しょう。