≪デボーションの友≫2022/7/25-30

2022/7/25(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:1-5 聖歌(総)402  聖歌 402

 パウロの宣教の言葉によってキリストを信じ、救いの恵みに与り、喜びの中に生きていたガラテヤの人々が、忍び込んで来た律法主義者たちの言葉にいとも簡単に惑わされて福音の恵みから堕ちていく姿を目の当たりにして「ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか。」と記す。「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示された」と言う部分について佐竹明師は

「キリストが十字架についたことによってわれわれ自身が律法に対して死んだこと、律法のわざによってではなく信仰によって義とされる道がわれわれに開かれたこと、そしてそれが唯一の有効な道であることをはっきり伝えておいたはずだ、と指摘しているのである」【現代新約注解金書 ガラテア人への手紙P249】

と述べておられる。「十字架につけられたイエス・キリスト」だけが救いの唯一の道である。

2022/7/26(火) 担当 ラウジー満世師 創世記12:1-3 賛美 聖歌(総)516 聖歌498

 12章から族長たちの時代が始まる。アブラハムの系図は11:27からすでに始まり、12章では主からの語り掛けがあった。既にアブラムには生まれた土地と親族と父の家があった。つまり、定住者として土地を耕し、親族に囲まれて安定した生活を送っていたのである。アブラムの信仰の背景やこれ以前の主との関係については何も語られていないが、私たちにとっては唐突にこの語り掛け、すなわち命令が与えられる。住み慣れた故郷を離れて出て行きなさい、と。しかもその目指す地は「私が示す地」としか語られない。行先も知らされないままに、これまで築き上げてきたすべての生活を捨てて、唐突に語られる主の命令に従えとは、なんと無謀な決断を迫られているのだろうか。しかし聖書はアブラムの苦悩や抵抗を伝えてはいない。

 神から突然、大きな決断を迫られる出来事や先行きが全く不明な中をとにかく進めと言われることが起こりうる。その御声に従う動機はただ神への信仰、信頼のほかにはない。信仰は一夜にして棚から牡丹餅のように落ちてはこない。日々の祈りと御言葉による生活の積み重ねの上に成り立つ。「私」の信仰は日々成長しているだろうか?

2022/7/27(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:1-5 聖歌(総)532  聖歌514

 パウロはガラテヤ人たちが律法主義の教えに落ちていくのを見て「誰があなたがたを惑わしたのか」と問う。この箇所について佐竹明師は

「「まどわす」と訳した語は「魔法にかける」という意味を持つ。魔法にかけて正しい判断を失わせたという意味である。この場合,ガラテアの人々をまどわした人々は,単なる人間としてではなく,むしろ悪霊的存在と見なされている。」【現代新約注解金書 ガラテア人への手紙P249-250

と述べておられる。

 主イエスは「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである」(マタ 24:24)と警告しておられる。ヨハネも「愛する人たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て行ったからです」(1ヨハ 4:1)と警告している。主との霊の交わりを絶やさず、聖霊に満たされ、導かれて真理の道を歩もう。

2022/7/28(木)担当 ラウジー満世師 創世記12:1-3 賛美 聖歌(総)477 聖歌464

 アブラムが神の呼びかけを聞いたとき、この壮大な祝福についてどれほど理解できていただろうか。アブラムを大いなる国民とし、祝福すると言われるが、それはアブラム自身の世代だけに関わることではなく、子、孫の世代に関わる命の祝福も含まれている。しかも子孫が大いなる国民になるまで何世代もかかるであろう。漠然と頭の中では理解していても、この祝福の内容は時間的にも空間的にもとても一人の人間が即座に正しくイメージし、実感できるものではない。限りある時間を生きる人間に対して、無限の偉大な神が祝福を告げて下さる。

 神の与えて下さる恵みと祝福の大きさを私たちの小さな存在ではすべて知り尽くせない。しかし私たちが知っているのは、かつてアブラムを導き、今私たちを導く神は全能の神であり、すべてにおいて限りのない神である。アブラムの祝福を受け継ぐ神の民として生かされている。感謝。

2022/7/29(金) 担当 高谷清師 詩 69:14-19 賛美 聖歌(総)25 聖歌85

 詩人は2-6節においていわれなき苦難に襲われ、危機に陥った。14-19節はその危機からの救いを求める祈りである。詩人が祈り求める根拠は神の恵みと慈しみである。神は「主、主、憐れみ深く、恵みに満ちた神。/怒るに遅く、慈しみとまことに富み、幾千代にわたって慈しみを守り/過ちと背きと罪とを赦す方。/しかし、罰せずにおくことは決してなく/父の罪を子や孫に/さらに、三代、四代までも問う方。」(出 34:6-7)と宣言しておられる。パウロは「だから、神の慈しみと厳しさとを考えなさい。厳しさは倒れた者に向けられ、神の慈しみにとどまるかぎり、その慈しみはあなたに向けられるのです。そうでなければ、あなたも切り取られるでしょう。」(ロマ 11:22)と述べている。更にヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(1ヨハ 1:7)と述べている。へりくだって常に神の慈しみの内を歩もう。

2022/7/30(土) 担当 高谷清師 マタ 6:12 賛美 聖歌(総)111 聖歌157 主が弟子たちに教えられた祈りの第五は「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく/我らの罪をも赦したま。」であった。この祈りは「我らが赦すごとく/我らの罪をも赦したま。」であることに注目したい。ヨハネが「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(1ヨハ 1:7)と述べているように、福音の真髄は「赦し」である。パウロも「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エフェ 4:32)と述べている。私たちはイエスの流された血潮によって神から無限の赦しを賜っている。それ故に私たちに罪を犯すものに対して同じように赦すべきである。