2012/11/19-24

 

2012/11/19(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:37-39  賛美 聖歌 622
 著者はハバ 2:3を引用して「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」と述べる。ハバ2:3は異邦人の圧迫のもとにあったイスラエルのためにハバククが主に求めた祈り対する答えとして主から与えられた御言葉である。この手紙が書かれた時代にもキリスト者は迫害のもとにあった。主は弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハ 16: 33)」と語られた。勝利者の再臨の約束は迫害の時代を生きるキリスト者の希望であり、彼らは一日千秋の思いでその成就を待ち望んでいた。今の世に生きる私たちにとってもそれは希望であり切なる願いである。しかし主の約束から2000年余りを経た今日、未だ成就していない。しかしそれは神の御計画に在って遅れることはないのである。
 

 

2012/11/20 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下17:24-29 賛美 聖歌588
 ダビデはヨルダン東岸にある堅固な防備を備えた町、マナハイムにいる。フシャイの助言のゆえにダビデは安全な場所へ逃れて、迫りくる戦いのために戦略を練ることが出来た。この戦いは、ダビデにとっては愛する息子の反乱から強いられて戦うものであり、もちろん失意の中にあっただろう。それでも、ダビデの周囲には彼を慕い、支える人々がいる。この支持者たちが携えてきた物資にはダビデへの配慮と親愛の気持ちが見える。
 息子たちの相次ぐ罪と反乱に、ダビデの心も乱れ苦しんでいただろう。しかしそのさなかにおいて、神はダビデのために知恵をもって使える僕を備え、また遠くへ逃げた先においても援助を惜しまない人々を備えられた。これはもちろんダビデが完璧に主に従っていたからではなかった。
 神は真実である。選ばれた人を支え、また見捨てることなく助けを与えられる。私たちが孤独なときにも、主はダビデとともに居られたように私たちとも共にいてくださる。
 

 

2012/11/21 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:37-39 賛美 聖歌514
 「わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」と言われている。「もしひるむようなことがあれば」と言う個所を口語訳聖書は「もし信仰を捨てるなら」と訳している。ペトロは「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか(?ペテ3:3-4)」と言っている。終りの時には信仰を捨て嘲る者が現れると言っているのである。それは神の御心に適うことではない。わたしたちは御言葉にしっかりと目をとめ、主がおいでくださる日まで主の御心に適う歩みをしょう。
 

 

2012/11/22(木)担当 高谷満世師 サムエル記下17:1-23 賛美 聖歌582
 ダビデはフシャイの機転によって得たわずかな時間を有効に使って戦いに備えた。彼が数々の戦いを経験した老練の将であったがゆえに出来たことである。しかしやはり完璧な人間ではなかった。戦いに出て行くヨアブ、アビシャイ、イタイに対して「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ。」(18:5)と語っている。ここには父親としてのダビデの弱みが見える。それを見抜いていたヨアブはダビデの言葉に従わなかった。これはヨアブがアブサロムに対して個人的に恨みを持っていたからではなく、将軍としての見識に基づいて彼を放免すれば再び国を危機に陥れることを予期したからである。アブサロムに止めを刺したのは彼自身ではなく、十人の兵士たちであった。アカンのときのように共同体の手で処刑が執行された。
 ダビデは優れた王であり、神の僕であった。完全ではなかったが罪を犯したら悔い改めて主に従おうと努力した。神はダビデの弱さを知りながらも赦し、受け入れ、選びについて忠実であられた。しかし、ダビデが間違った願いを持っていたときには神の良しとされることをなされた。神は人間の操り人形になる方ではないことを覚えつつ、選ばれた私たちは今日も主の御心を求め、主の業に励もう。
 

 

2011/11/23(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:37-39 賛美 聖歌 236
 「わたしの正しい者は信仰によって生きる」と言うハバクク書の御言葉を引用しつつ「ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」と述べる。甦られた主イエスもまた「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける(マコ 16: 16)」と教えられた。信仰は私たちにいのちと希望を与えるものである。わたしたちは目の前に広がる現実に目を奪われて信仰を捨て去り、滅びる者になってはならない。神の約束に目を注ぎ、望みをもって信じきる者となろう。
 

 

2012/11/24(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書 2:13−17 賛美 聖歌462
 イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応えてレビはイエスに従った。ある日レビはイエスさま一行を招いて食事の席をもった。そこにはイエスと其の弟子たちとともに、レビの同僚であった徴税人や罪人も席についていた。これを見たファリサイ派の律法学者は、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。
 世の「正しい人々」は自分の正しさを示すために「罪人」との交わりを絶とうとする。しかし主は罪人を招いて悔い改めさせ、義とするために来てくださった。イエスに来る人はすべて彼によって義とされるのである。