2012/11/12-17

 

2012/11/12(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙  10:30-31  賛美 聖歌 635
 著者は申命記32:35−36を引用して自身が発した警告が大げさな話ではなく正当なものであることを明らかにする。申命記32:35の御言葉はモーセを通して語られた主ご自身のものである。裁きを行われるのは全知全能の主ご自身であるため、東電OL殺人事件のような誤りはない。そして主は「主はその民を裁かれる」のである。この御言葉は二つの側面を持つ。主に選ばれた民を圧迫し続ける敵に対して主が裁きを行い、主の民を解放してくださる裁きとともに、主に選ばれ、ご自身の民とされ、律法を与えられ、その愛に入れられながら、反抗し続ける者に対する裁きである。アモス書において主は「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する(アモ 3:2)」と語っておられる。キリストの贖いの恵みによって神の民とされた私たちにも、主は私たちを迫害し続ける人々を裁き、彼らから守ってくださるとともに、真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続ける者に対して裁きを行われるのである。心からの愛と感謝と畏れをもって歩もう。
 

 

2012/11/13 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下16:15-23 賛美451 
 アブサロムは反乱を起こしてダビデからエルサレムを奪い、アヒトフェルとともに入城した。そこには真実にはダビデに従いつつもアブサロムの元に残ってダビデのために働くよう命じられたフシャイもともにいた。フシャイはなおアブサロムの信頼を得るために演説をしなければならない状況にあったが、それでもついにアブサロムに受け入れられた。アヒトフェルの言葉は当時信頼されていた(16:23)。アブサロムに対して、父の側女たちを自分のものにするよう進言した。かつてダビデもサウルの側女たちを同様に扱ったが(12:8)、アブサロムは父の側女を自分のものにすることは、かつてルベンがのろいを受けたように、赦されることではなかった。アブサロムはイスラエルの慣例に従っただけだったかもしれないが、事実上、神の法に背いた。
 ダビデの王座を継ぐにふさわしいものはアブサロムでもなかった。今まさにアブサロムがエルサレムに入り、国を掌握しようとしているように人々の目に映る状況の只中にあって、聖書はアブサロムの信仰を通して、神の選びを伝えている。
 

 

2012/11/14 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:30-31 主をほめよ28
 著者は「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです」と述べる。パウロはアテネで御言葉を述べ伝えた時、「皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。(使 17:28-29)」と述べている。神の前に誠実に歩む人々も、主を侮り故意に罪を犯し続ける人々も共に「神の中に生き、動き、存在」しているのであって、神の御手の届かないところに逃避することはできないのである。そしてこの神は「生ける神」である。ご自身の語られたことを、御心に従って確実に行われるお方である。それ故、速やかに罪を離れ、御言葉に生きよう。
 

 

2012/11/15(木)担当 高谷満世師 サムエル記下17:1-23 賛美484
 アヒトフェルが当時イスラエルでは信頼されており、心からアブサロムを支えていた彼の提案が即座に取り上げられるかに見えた。しかしここでアブサロムはフシャイの提案にも耳を傾ける。フシャイは言葉巧みにアヒトフェルの提案よりも自らの提言に人の心をひきつけていく。アブサロムの突然の反乱から続く、混乱した状況の中で、ダビデがエルサレムに残した人々を通して、事態は秘密裏にダビデに有利な方向へと動いていく。危うく、伝令として残した祭司の息子たちが見つかりそうになるが、そこでも彼らは守られた。
 ダビデとアブサロム、どちらが人間として優れ、どちらが王としてふさわしく、どちらが罪を犯さずに歩んだのか。二人を比べるならば、どちらも決して完璧に神の前に歩めたわけではなかった。しかし、この出来事の渦中において、確かに神の選ばれた器が守られ、神の御心が実現していくことを見る。御心が今日もなるように。祈りつつ歩もう。
 

 

2011/11/16(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:32-36  賛美 こころ?20
 初代教会のキリスト者たちは迫害の中におかれていた。そのような中でも主に選ばれた人たちは、その迫害を自分の上に招くものであることを知りながら、福音を受け入れ、信仰を告白し、キリスト者としての歩みを踏み出していった。パウロは自分自身が教会の迫害者でありながら、劇的な出会いによってキリストを知り、福音を受け入れ、信仰を告白し、キリスト者としての歩みを踏み出し、それによって迫害を受けながら主に従った。その迫害は、あざけられ、苦しめられて、見せ物にされ、財産を奪われ、命を危険にさらすものであった。しかし彼らは喜んで耐え忍んだのである。自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っていたからである。著者はここで「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」と語る。
 今の時代にあってもキリスト者としての歩みには様々な困難が伴う。しかし私たちは素晴らしい御国の約束を与えられているのである。それ故、忍耐をもって主に従い尽くそう。
 

 

2012/11/17(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 18:9−14 賛美 聖歌256
 神のみ前に自分を罪人と感ずることはなかなか至難である。自分を、他人よりも偉く立派だと奢り高ぶる者はこのファリサイ人の如く、神によって義とされることはできない。この徴税人のように、神の前にへりくだって罪を認め、神の憐れみを求める時始めて神によって義とされるのである。