2022/1/24-29

2022/1/25(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書13:7-9 賛美 新聖歌374

 引き続き終わりの時の様子が語られる。ここには牧者が立てられている。この牧者を打ち殺せと神は言われる。大変強い言葉で指導者たちである牧者を神の懲罰として打ち、さらにそのあとに残された子どもたち、つまり社会の中で指導者ではない、力なき弱い者たちも含めて打たれるという。わずか三分の一が残されても、彼らはさらに精錬されるという。驚くべ厳しさだが、これはすべて者が罪からきよめられる必要があることを教えている。

 終わりの時に主の日が訪れ、神の完全な支配が実現される時、そのためには民全員が神によって試され、精錬され、鍛えられて清められなければならない。私たちはどうだろうか。主イエス・キリストの血潮によって洗い清められ、聖霊の導きの内に歩み続けているだろうか。終わりの日に主が民を清められる時、練られて清いものとされ、神と共に歩ませていただけるものでありたい。

 

2022/1/26(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ5:6 新賛美 聖歌 501

 続いてパウロは「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」と語る。ヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハ 1:18)と語っている。またイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(ヨハ 4:6-7)と語っておられる。更に、ぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と語っている。今日、宗教多元主義が叫ばれる時代に在っても、真理は不変である。

 

2022/1/27(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書13:7-9 賛美 新聖歌372

 先日見たように、ここでは神が民全員を練り鍛えて終わりの日に清められると記されている。このきよめの業はそれを受ける人々にとっては痛みを伴う。神がこのように人々をきよめるのには目的がある。それは神と人々との関係を回復することである。神はきよめられた人々を「わたしの民」と言い、きよめられた人々もまた神を「私の神」という。個人的な関係であり、確固たる信頼に基づいた関係である。神がイスラエルを選び、エジプトから導き出し、シナイ山で契約を結ばれたときの関係が再び結ばれるのである。

 神はご自分を信じる人々を練り鍛え、きよめて整えられる時、彼らとの間に罪の隔てのない、ゆるぎない信頼に基づいた関係を回復される。私たちは主の血潮によって罪を洗い清められたものとして、この神との親しい関係を保ち続け、求め続け、主の恵みの中を歩み続けよう。

 

2022/1/28(金) 担当 高谷清師 詩 66:5-6  賛美 新聖歌 104

 詩人は「来て、神の御業を仰げ/人の子らになされた恐るべき御業を。神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。」と詠う。この箇所について鍋谷尭爾師は

「全地よ。神に向かって喜び叫べ」(1)、「国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ」(8)と呼びかけることは、イスラエルの民の出エジプトとヨルダン渡河の歴史的体験(6)に支えられてのみ可能となるのです。モーセによる出エジプトとヨシュアによるヨルダン渡河の奇蹟は、イスラエルの民が絶えず回帰する原点であるとともに、イスラエルが全地に向かって「イスラエルの神を賛美せよ」と招きの声をあげる原点でもあります。」

と述べておられる。イスラエルは「神の選びの民」と言われる。その呼称から我々が想像するイメージとは裏腹にその歩みは苦難に満ちたものであった。彼らは苦難に遭遇するたびに原点に立ち返り、信仰を新たにし、新しい力を得たのである。私たちキリスト者にとってもその歩みには苦難が伴う。しかし、苦難に遭遇するたびに十字架を仰ぎ、それによって新しい力を得ることが出来る。

 

2022/1/29(土) 担当 高谷清師 ヨハ14:9-14 賛美 聖歌 253

 イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 4:6-)と語っておられる。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(?ヨハ 1:7)と述べている。更にイエスは「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と語っておられる。私たち罪ある人間はイエスの御名によらずして神の前に立つことはできない。イエスの御名により、イエスの血潮による罪の赦しに与ってのみ、神のみ前に出ることが出来るのである。それ故、私たちの祈りは常にイエスの御名によってなされなければならない。