2022/1/31-2/5

 2022/1/31(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ2:6  賛美 新聖歌 236

 パウロは「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」と語る。イエスは「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハ 10:17-18)と語っておられる。パウロはガラテヤの信徒への手紙において「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」(ガラ1:4)と語っている。更にイエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12-13)と語っておられる。

 イエスはわたしたちを愛して、私たちを罪から救い出し永遠の命を得させるためにご自分の命を捧げてくださったのである。その尊い愛に深く感謝しょう。

 

2022/2/1(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書14:1-5 賛美 新聖歌165

 終わりの時の「主の日」の様子が描かれる。難攻不落であるはずのエルサレムに対して諸国民が襲い掛かり、家の略奪や暴力など、恐ろしいことが起こる。半数の住民は捕らえられて半数は残される。いよいよこの危機が最もひどい状況になった時、神が介入される。主がオリーブ山に下られる時、地が裂けて峡谷ができる。人々が逃げ惑う最中に主がみ使いたちと共に民のもとに来られる。

 終わりの日に主が顕れるときに起こる現象は人間の力をはるかに超えるものである。もちろん突然起こる大きな変化を見て人々は恐れるが、それ以上に神の顕現に触れることに大きな恐れを経験するだろう。実際に神がこの地に介入される時、人は神の臨在の近さにただただ畏れを持つ。神が近くに居て下さることは恵みでありつつ、また私たちが神は畏れるべき方であことを教えられる。

 

2022/2/2(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ2:6 新賛美 新聖歌 345

 パウロは「これは定められた時になされた証しです」と語る。イザヤは「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザ 9:5-6)と預言している。パウロはまたガラテヤの信徒への手紙において「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」(ガラ 4:4)と述べている。ぺトロは「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」(?ペト 1:2)と述べている。御子イエスの御業は私たちに救いを得させるため、神が初めから計画していてくださったものであることが分かる。恵みに満ちた神の御心に感謝しょう。

 

2022/2/3(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書14:6-11 賛美 新聖歌378

 主がオリーブ山に降り立たれる時、冷え切った地に光が差し、暖かさが戻ってくる。まさに神の栄光の光に照らされて、暗闇と寒さが一気に消え去ってしまうようである。混乱を極める終わりの日にも、神は確かな力をもってご自分の民の間に降り立ち、地に光を回復し、さらに8節では水に対しても影響を及ぼされる。これはエゼキエルが語っている(エゼキエル書47章)水の流れを思い出させるが、この命の水もエルサレムから湧き出て東へ、西へと自由に流れ続ける。

 「主の日」は恐ろしい裁きの日でもあるが、それは同時に神が地上においてご自身を顕され、神の光が世を照らし、最初の時に流れていた4つの川を思い起こさせつつ、神の命の水の川を流れ出させる回復の日でもある。神は決して人を見捨てず、破壊を越えて回復と命を与えて下さる。

 

2022/2/4(金) 担当 高谷清師 詩 66:5-6  賛美 新聖歌

 詩人は「神はとこしえに力強く支配し/御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない。」と詠う。この箇所について カルヴァンは

「律法の時代には、神はそのみ座をユダヤだけに据えられて、そこを支配されたとしても、しかも全世界をその摂理によって常に抱擁されたのである。そして、神がアブラハムの子らに与えられた、契約に関するこの特殊な特権も、神がその視野を他の国々にまで及ぼし、これを養い保つのを、少しも妨げなかったのである。神が異教徒の間でも、悪しき者と滅びに定められた者を罰される、と言われていることは、この点、すなわち、神が彼らのためにも配慮される、ということを確認する。そこで預言者は、十分な効果をもって、神が人類のどの部分をも蔑視されないことを、不義なる者を打ち砕き、滅ぼされることを通じて証明する。たとえこの世では、多くの事柄が混乱しているようであっても、神はそのさばきが暖昧になり、隠匿されて、そのいくばくかの徴も見えなくなるようなことは、けっして許されないのである」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P320新教出版社1971

と述べている。神はいかなる時も全世界を視野に納め、支配しておられることは歴史書、預言書によって明らかである。それ故、私たちは義にして聖なる方の前に常に愛と真実をもって歩もう。人の目は誤魔化すことが出来ても、神の目を誤魔化すことはできない。

 

2022/2/5(土) 担当 高谷清師 ヨハ14:9-14 賛美 聖歌 253

 イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 4:6-)と語っておられる。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(?ヨハ 1:7)と述べている。更にイエスは「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と語っておられる。私たち罪ある人間はイエスの御名によらずして神の前に立つことはできない。イエスの御名により、イエスの血潮による罪の赦しに与ってのみ、神のみ前に出ることが出来るのである。それ故、私たちの祈りは常にイエスの御名によってなされなければならない。