2022/2/7-12

 2022/2/7(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ2:8  賛美 新聖歌 264

 パウロはこの箇所において男子の正しい礼拝について語る。第一は「男は怒らず争わず」である。イエスは「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタ5:23-24)と教えておられる。神に喜ばれる正しい礼拝の前提条件は兄弟との和解、兄弟への赦しである。更にパウロが「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェ 4:32)と述べているとおり、兄弟との仲直りの基礎はイエスの十字架による神の赦しである。

 

2022/2/8(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書14:9-11 賛美 新聖歌181

 やがて主が地上をすべて治める王として即位される。詩編93編などに見られる、王の即位の詩を思い起こす。ついに神は全地の王となり、地を支配される。その時地上の国々、人々は神が唯一の王であることを認める。神が王となって臨在される時、その地には人々が住み、命が守られ、その地には安住がもたらされる。まさに神が住まわれる時に真の平和が実現され、地の民が真の神を認める。

 ゼカリヤは終わりの時の回復と平和を語り、その時には命が与えられ、地上のすべての人々が神を王として迎えると述べる。真の神を主と信じる人々は主が最後に力をもって顕れる日を喜んで待ち望む。私たちはその日を期待しつつ、同時にまだ主を信じていない人々にとっての滅びの日を迎える前に、一人でも多くの人々に福音を伝えよう。

 

2022/2/9(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ2:8 新賛美 新聖歌 355

 男子の正しい礼拝の第二は「清い手を上げてどこででも祈ること」である。「清い手」とは、罪の無い状態である。イザヤは「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザ59:1-2)と述べている。罪は神との関係を断絶する。それ故、罪を抱いたままでは祈ることはできない。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(?ヨハ 1:7)と述べている。イエスは「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」(マル 11:25)と教えておられる。日々十字架を仰ぎ、御前に罪を告白し、悔い改め、神の赦しを頂き、兄弟を赦し、キリストの赦しの内を共に歩もう。

 

2022/2/10(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書14:12-16 賛美 新聖歌401

 続けて終わりの日に示される王なる神の力が描かれている。創造者である神のすさまじい力である。神はエルサレムに攻め寄せる人々を疫病で打たれる。立ったまま体が朽ちていくほどの勢いでその病は敵を襲う。さらにそれは動物にも及ぶ。すべてを造られた創造者の力に圧倒される。神は終わりの日には敵対する者を滅ぼされる。しかし同時にそれが神を信じる人々にとっては全く反対に救いと勝利の日である。神を信じる人々はこのことが実現したならば年ごとにエルサレムへ上り、喜びと感謝に満たされて祭りの日に主を礼拝する。

 終わりの日は信じる人々にとっては解放と回復と喜びと礼拝の日である。信仰者としてその日を待ち望みながらも、同時に一人でも多くの人がこの終わりの日を疫病と滅びではなく、喜びと礼拝の日として迎えられるよう、とりなして祈り続け、福音を伝え続けよう。

 

2022/2/11(金) 担当 高谷清師 詩 66:7  賛美 新聖歌 5

 詩人は「背く者は驕ることを許されない。」と語る。神はご自分の民、イスラエルが罪を犯し神に背く時、しばしば、異邦人を用いてイスラエルを裁かれた。そのために用いられた異邦人の国々はおごり高ぶり、イスラエルを、限度を超えて虐待し、苦しめた。神のみ名を汚し、冒瀆し、限度を超えて思い上がる異邦の諸国を裁いてこられた。

 パウロはローマの信徒への手紙において「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ロマ 12:3)と語っている。コリントの信徒への手紙?においては「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。」(?コリ 10:13)と語っている。神の恵みによって祝福を受ける時にも、驕ることなく栄光を主に帰しつつ、謙虚に歩もう。

 

2022/2/12(土) 担当 高谷清師 マタイ9:35-38 賛美 新聖歌 201

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこでイエスがご覧になったのは飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆の姿であった。イエスはこの状態を深く憐れまれた。そして弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。」と言われた。群集の悲惨な状態は神の目には「収穫は多い」状態である。パウロは自分のみに与えられたとげについて、これを離れさせてくださるよう、三度主に願った。それに対して与えられた答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(?コリ 12:9)ということばであった。

 今日の社会における最大の問題、老人問題に目を向けると、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている姿がある。迫りくる死を前にして絶望と恐怖が支配する。どんなに至れり尽くせりの処遇を受けても、どんな慰めの言葉もそれを解決することはできない。若年世代も、壮年世代もこれは本質的には同じである、これを解決できるのは永遠の命を得させる福音だけである。宣教のために祈ろう。