2019/11/11-16

2019/11/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:16 賛美 新聖歌 343
イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と語られる。この御言葉について四竃揚師は「キリストへの信仰は、動機の上では自分の判断、自分の選びのように思っていたキリストへの求めが実は、イエス・キリストの方から先に選んでおられたのだという逆転の発見をすることにあり、またこのことのもとに屈服することにある、といってよいと思う。」((説教者のための聖書講解No32P51日本基督教団出版局1980))と記しておられる。また師は「我々がキリストを追求している間は、求めている自己がなお中心になっており主キリストを見失う危険がある。神を知ることは逆に「神に知られている」ハガラテヤ四・九〉ことの発見である。」と記し、更に『「選びの信仰」は実
に「神の主権と恩寵」に対する絶対的告白である。』(同書)と記しておられる。また、神学生時代、神学を講じてくださった敬愛する師は「信仰の歩みの途上にあって立ち止まって振り返る時、その歩みは実に神の恵み、恩寵による選びの御業であったと言うほかない」と語られたのを思い起こすのである。われらが今信仰により、恵みの内に生かされているのは神の選びによることを感謝し、恵みの内に留まり続けよう。

2019/11/12(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:25-27 賛美 新聖歌427
神は裁きによって荒廃を経験した民を、憐みによって再び顧み、祝福される。その時人々はどのように応答するだろうか。もちろんかつての祝福を回復された人々は心から喜ぶだろう。そのようなときにしばしば人の心を見てみると、危機を脱して状況が好転したとたんにすべての良きものは自分の手で得たかのように考え、自己中心に振舞い始めることがなんと多いことだろうか。しかしヨエル書ではこの恐るべき主の日を経験し、恵みを再び得た人々はイスラエルのうちに主がいることを深く知り、神なる主だけを神としてあがめ、礼拝するという霊的刷新と信仰の回復が与えられるという。
物事がうまくいかなくなれば神に頼るが、危機を脱すると途端に神に頼る必要がないかのように振舞っていないだろうか。あらゆるときに私たちを導くのは主なる神である。今日も主の愛のうちに生かされていることを喜び、感謝し、主を知り、主を畏れよう。

2019/11/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:16 賛美 新聖歌 266
更にイエスは選びの目的について語られる。第一は「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」ということである。イエスが私たちを選び任命してくださったのは、出かけて行って実を結び、その実が残る為である。私たちがイエスを証しし、信じる者が起こされ、教会が建て上げられるためである。それ故、五タラントン与えられた者は五タラントンをもってイエスを証しし、二タラントン与えられた者は二タラントンをもってイエスを証しすべきである。与えられたタラントンを地の中に隠しておいてはならない。その証の力はイエスにつながっていることによって与えられるのである。日々祈りによってイエスにつながり、聖霊によって愛と力にお満たされ、イエスを証しし、豊かな実を結ぶ者となろう。

2019/11/14(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:1-2 賛美 新聖歌411
終わりの時に訪れる主の日に神の霊が注がれると語られる。旧約の時代、神の霊を賦与されたのは限られた人々だけであった。ギデオンのように選ばれた指導者、サウルやダビデのような王たちであった。モーセは主の民全員の上に神の霊が与えられて、皆が預言者となったらよいのにと願った(民11:29)。ヨエルも旧約の時代に生きていたので、その当時の現実としては神の霊は神の民を導く一部の指導者たちにのみ注がれ、その力によってはたらきを全うしていたのを知っていた。しかしここでは大胆にも時が来たら、年齢や性別や社会的地位や立場を問わず、すべての人に主の霊が注がれるという。それによって主の霊が注がれた人々が指導者を介さずに直接神と対話し、神の御心を知るのである。
イスラエルが捕囚となる直前、王国が滅ぼされたのは民の心が神から離れて頑なになったからであった。そのような罪に沈む人々に神の霊が注がれることによって、神から生きた関係の回復が与えられるのである。罪と背信によって頑なになった心を新しくつくりかえ、神との親しい関係に戻してくださるのは神の恵みの御業である。この恵みの業を思い起こそう。

2019/11/15(金) 担当 高谷清師 詩 49:17-20 賛美 新聖歌 234
詩人は「人に富が増し、その家に名誉が加わるときも/あなたは恐れることはない。」と詠う。この節をフランシスコ会訳は「人が富み、その家の宝が増しでも、/ねたんではならない。」と訳している。またロジャーソン・マッケイは「人が富むようになる時も、/その家の栄えが増し加わる時も、/彼を羨んではならない。」と訳し「羨んではならない」について「ヘブル語は「恐れてはならない」であって、「どうして私は恐れなければならないのか」(五節口語訳)という導入をもって始まった本詩篇の主題をしめくくるためには一層適切な奨励であると言えよう。」(ケンブリッジ旧約聖書註解13詩篇1−72』新教出版社1984 P248)と述べている。他者が富み、この世の名誉が彼の上に増し加わるとしても、恐れたりねたんだり羨んだりすることはない。この世の富と名誉は神の国を継ぐことはできないからである。

2019/11/16(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリ1:18-21 賛美 新聖歌 359
古来、人間は洋の東西を問わず、救いを求め、神を探し求めてきました。そして多くの知者、賢者を輩出してきました。しかし人を救いに至らせるもの、人に永遠の命を得させるものを見出すことはできませんでした。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。則ち、罪の無いご自身の一人子を遣わし、このお方にすべての罪を追わせて十字架につけ、血を流し、命を捨てることによってこのお方を信じるすべての人を罪から解放し、救いを得させる道を開かれたのです。この道はこの世の知者、賢者の目には愚かに映ります。しかし、これこそ神の知恵であり、私たちの救いの唯一の道です。