2020/8/3-8

 2020/8/3(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:15 賛美 新聖歌 38

 ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。かつてイエスが御自分を信じたユダヤ人たちに「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と語られた時、ユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。と答えた(ヨハ 8:31-33参照)。また、イエスを陥れようとして「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」(マタ 22:17)と質問した。これらは神のみが自分たちの仕えるお方―王であられることを言い表したのである。しかし今、彼らは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言い放った。この箇所についてジークフリート・シュルツは「ユダヤ人は怒りに燃えてもう一度、イエスを十字架につけよとの要求を繰り返す。そこでローマ〔=ピラト〕がエルサレム〔=ユダヤ人〕に向かって厭味たっぷり、本当にお前たちの王を殺せと言うのか、と尋ねる。憎悪の念すさまじい大祭司連の姿をしたエルサレムは、まさにそのことをローマに要求する!いや、「われわれには皇帝のほかに王はない」と言うことによって、ユダヤ人はそのメシア的未来待望を放棄し、それどころか憎むべきローマ帝国に対する忠誠をさえ装うのである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書P447 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。妬み、憎しみは自らを盲目にし、破滅を招く。

 

2020/8/4(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:3  賛美 新聖歌369

 ヨナが宣教するとニネベの人々は罪を悔い改めた。その祈りを聞いて神は思い直され、ニネベを赦された。罪びとが悔い改め、神に立ち返るという素晴らしいことが起こった。しかしこの神の業を見て喜ばず、激怒した者がいた。なんとそれは預言者ヨナ自身であった。ヨナは躊躇なく神に対立する。ニネベの人々に対する神の赦しと慈しみに対して怒った。このような怒りは間違っているが、一つ、ヨナの変化を見ることが出来る。1章からヨナは神に対して不満を持ってきたのだが、1章では神に向き合わずに逃亡を図った。しかしそれが不可能だと知った今、ヨナは自分の怒りを神にぶつける。神に向き合った。ついにヨナは怒りを自分の内に隠さず、神と向き合った。

 私たちが神に対して不満や怒りを持つとき、信仰者として苦しむ。自分が間違っていることを知りながら、感情をコントロールできないときに私たちにできる唯一のことは正直に神と向き合い、なお神に対する怖れを持ちながら神の前に自分を差し出すことである。自分にとって理解できない時にも神は神であると知ることからこれは可能になる。

 

2020/8/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ ヨハ 19:17-18 賛美 新聖歌 105

 ピラトから十字架につけるためにイエスを引き渡されたローマ兵たちは、刑場である「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ連行する。ローマの慣習によれば受刑者は十字架の横桁を自分でかつがねばならなかった。イエスもまた、自分の十字架の横桁をかついでゴルゴタへ向かわれたのである。共観福音書はシモンという名前のキレネ人にイエスの十字架を無理に担がせたことを記しているが、ヨハネはそのことを記していない。イエスにおいて「十字架の横桁」とは何であっただろうか。それはすべての人を死に閉じ込める罪である。イエスはこの罪を最後まで身に負って十字架に死なれたのである。それによって私たちは罪から解放され、命の恵みに与ったのである。そしてイエスは言われる「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタ 16:24-25)と。この御言葉を深く心に留め、真実をもってイエスに従おう。

 

2020/8/6(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:1-3  賛美 新聖歌321

 ヨナが怒って神にその思いを述べている。ずいぶん率直にヨナの自分勝手な期待を述べている。ヨナにとって自分たちを苦しめてきたニネベ、それ故に深い憎しみと対立を持ち続けているこの町を神が慈しまれるのは我慢がならない。神との関係に生きるとは、ここまで率直に祈ることが赦されているということである。しかしヨナはその時にもなお神に栄光を帰している。神が恵みと憐みの神であることを告白している。

 私たちは神のなさることが自分の理解する神の義に合わないと思って困惑する。その時に神に御心を求め、尋ね求めることは許されている。ただし、神と向き合うときに神を冒涜したり、神を否定したりすることは罪であり、赦されない。神の赦しの中で、正直に心を打ち明け、主を愛する者として歩ませていただくために、神との霊的な対話を積み重ね、学んでいきたい。

 

2020/8/7(金) 担当 高谷清師 詩 55:7-9  賛美 新聖歌 425

 詩人は「わたしは言います。「鳩の翼がわたしにあれば/飛び去って、宿を求め、はるかに遠く逃れて/荒れ野で夜を過ごすことができるのに。烈しい風と嵐を避け/急いで身を隠すことができるのに。」と詠う。鍋谷尭爾師は「アブラハムが古代都市文化の真っ只中から行く先を知らずしてカナンの地に導かれた背景には都市文化の持つ、精神的、宗教的、道徳的、社会的腐敗からの脱出の意味が含まれていたのではないでしょうか。」(『詩篇を味わう?』P135136いのちのことば社 2006)と述べておられる。しかし、詩人にはアブラハムのような召しは与えられなかった。ボンヘッファーは「イエス・キリストは、敵のただ中で生活された。最後には、すべての弟子たちが、イエスを見棄てて逃げてしまった。イエスは十字架の上で、悪をなす者たちや嘲る者たちに取り囲まれて、ただひとりであった。彼は神の敵たちに平和をもたらすために来られたのである。だからキリスト者も、修道院的な生活へと隠遁することなく、敵のただ中にあって生活する。そこにキリスト者は、その課題、その働きの場を持つのである。」(『改訳新版 共に生きる生活』P8新教出版社2011)と述べている。イエスも「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタ 5:13-14)と教えておられる。召しに従い、立てられた場所において証ししていこう。

 

2020/8/8(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 18:21-22  賛美 新聖歌 359

 ぺトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねました。日本には「仏の顔も三度まで」と言う諺があります。私たち人間の感覚では同じ過ちを繰り返した場合許すのは三回が限度という思いがあります。しかし、ぺトロはイエス様と日ごろ親しくしていて、イエス様が愛と忍耐に富んでおられるお方であることを実感していましたので、大奮発して「七回までですか。」と尋ねたのでした。これに対してイエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とお答えになりました。「七の七十倍」というのは「無限に」と言う意味です。

 イエスはご自身の血をもって私たちに罪の赦しを与えてくださいました。この赦しは自らの罪を自覚し、悔い改める者に対して無限に与えられるのです。パウロは「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エペ 4:32)と述べています。自らの罪が許されたことを感謝し、互いに赦し合う者となりましょう。