2020/8/10-15

 2020/8/10(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:17-18 賛美 新聖歌 225

 ヨハネは「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。」と記している。この箇所について西間木一衛師は「このふたりの死刑囚は、ほかならぬ私たち一人びとりである。しかし、私たちのまん中に、「世の罪を取り除く神の小羊」がおられる。そして十字架の上から、「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(イザヤ書1:18)と言ってくださるのである。」(説教者のための聖書講解No3356日本基督教団出版局1980)と述べておられる。

 イエスの尊い血潮によって罪を赦され、神の子とされ感謝と喜びの中に生かされていながら、なお、世に在って日々罪を犯さずにはおれない肉の弱さを持ち、悲しみの中にあるわたしたちである。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ 7:24)と叫ばずにはおれない者である。しかし、私たちのまん中におられる「世の罪を取り除く神の小羊」を見上げる時、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ロマ 7:25)と叫ぶことが出来るのである。信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」(ルカ 5:20)言ってくださるイエスを見上げて生きよう。

 

2020/8/11(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:4  賛美 新聖歌216

 ヨナが怒りによってぶつけた不満に対する神の答えは短く、強烈であった。ヨナは不満を述べた時、何を期待していただろうか。自分自身でこらえきれない本心を漏らしたヨナは、神が自分を慰めて思いを変えてくださることを期待しただろうか。あるいは、神の御心を理解できないヨナに手取り足取り説明し、なだめて信仰の成長を助けてくださることを期待しただろうか。しかしヨナが受け取った神の答えは自戒と反省を促すものだった。

 私たちは「祈りは聞かれる」、「神は満たしてくださる」と信じている。しかしそれがいつの間にか「私たちが望むとおりに神はすべてのことを変えてくださり、私の目に最善を与えてくださる」との期待にすり替わっていないだろうか。神は祈りに答えることによって私たちが自分の要求を通すことではなく、神の思いとご計画を知り、神の言葉によって、内なる聖霊の助けによって変えられていくことを求められる。そのためには自分の心を見つめ「それは正しいことか」(4:4)との御声を聞いて静まり、祈ることも必要である。

 

2020/8/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 新聖歌 427

 ピラトは慣例に従い、罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。ヨハネは、それには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあったこと、イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだこと、それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたこと、を記している。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書について西間木一衛師は「イエスがユダヤ人に限られた主である、という意味ではない。「『ユダヤ人の主』は『世界の救い主』(四・四二〉である」(プルトマン〉」説教者のための聖書講解No3355日本基督教団出版局1980)と述べておられる。西間木一衛師が引用されているヨハ 4:42においてはサマリヤ人たちが「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と語っている。イエスこそ全世界の真の王、救い主である。

 

2020/8/13(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:5-8  賛美 新聖歌395

 自戒を促されてもヨナは怒りを抑えるどころか、挑戦的な態度でニネベの都に起こることを見届けようとした。その後の展開が意外である。神はふて腐れたヨナのために日陰を作るとヨナは喜び、不満まで消えてしまった。しかしまたそれが神の手によって取り去られるとまたまた怒りに支配されて死をも願う。冷静にヨナを見ていると、ニネベの赦しには全く無関係の自分の快適さを与える状況によって怒りを静めたり、再燃させたりするヨナは滑稽にも見える。しかしこれが私たちの姿ではないだろうか。一見無関係の状況でも、神の恵みが自分に向けられるときには喜び、自分の好まない人に向けられるときには怒る。これが人間の愛の限界である。しかし神はそれに対して問いかけられる。「それは正しいことか。」と。

 人を愛するとはどういうことなのだろうか。あなたの敵を愛しなさいと命じられた主の言葉を、ヨナの姿を通して考える。神の愛が自分だけに向けられることを喜ぶのではなく、神の愛がすべての人に向けられることを喜ぶところから、人々の救いのためにとりなして祈り、伝える第一歩が開かれる。

 

2020/8/14(金) 担当 高谷清師 詩 55: 21-22  賛美 新聖歌 389

 詩人は「わたしを嘲る者」について「彼らは自分の仲間に手を下し、契約を汚す。口は脂肪よりも滑らかに語るが/心には闘いの思いを抱き/言葉は香油よりも優しいが、抜き身の剣に等しい。」と述べている。月本昭男師は聖書が記すダビデとヨナタンの美しく真実な友情物語に言及しながらも「友情に触れる箇所は旧約聖書に少なくない。だが、その多くはむしろ友情の破綻を見据えた言葉である。預言者ミカは公正と慈愛の失せた現実を前にして「友を信じるな」と語り(ミカ7:5)、親しい者の裏切りを味わったエレミヤは友人による欺きを告発する(エレ9:3-57)(中略)。友情は、いうまでもなく、まずは個人的関係である。だが、社会が個人を翻弄する力として動き出すとき、友情は試練に直面する。裏切りが横行し、それがまた社会を滅亡に向かわせる。(中略)だが、ことは古代に限らない。わずか半世紀余前の日本においても、平和をねがう幾多の人が本詩に描き出されたと同じ事態に遭遇したのである。矢内原忠雄は本詩の講義に次のように記している。「戦前私を大学より追ふに力あった者は、私と同じ教授会に坐った者であったし、「小十字架」の著者浅見仙作翁検挙の端を作ったものは、同じ祈祷会に坐った者の密告であったと言はれる」(「矢内原忠雄全集』第十一巻、四一一頁。)」『詩編の思想と信仰?』P73新教出版社2011)と記しておられる。友情は、友人がいわゆる「悪人」ではないとしても、裏切りと破たんを招くことが多い。それは人間の弱さに起因する。パウロは「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(?テモ 2: 13)と述べている。信頼すべきお方はイエス・キリストである。

 

2020/8/15(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 7:1-13  賛美 新聖歌 225

 イエスの時代に生きたファリサイ派の人々や律法学者たちは神から与えられた律法に従って生きるために定められた様々な規定や言い伝えを形式的に守ることに熱心であった。彼らから見るとイエスの弟子たちの生活態度は受け入れ難いものであった。そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちがイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」と尋ねた。イエスはファリサイ派の人々や律法学者たちの生活をご覧になって彼らの生活が形式主義的であり、本当に重要でないものを重視し、神の言葉で教えられている真に重要なものをないがしろにしているのを発見された。

 神が求められるのは心から神を愛し、畏れ敬い、人を愛することである。心から神と人を愛する歩みをしょう。