2016/1/18-23

2016/1/18 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ2:21-25 賛美 新聖歌 404
 23節においては「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」と述べられている。主イエスが十字架につかれたとき、通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしった。一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。主はののしり返さず、一緒に十字架につけられた犯罪人の一人の「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う祈りに「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えられた。聖書は「わたしが報復し、報いをする/彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る。」(申 32:35)と教えている。他者から被害を受けるとき、それに報復したくなるのは人間の常である。しかし主は他者から受ける被害に報復せず、彼らのために執り成し、父なる神に委ねられた。キリストに習う者となろう。

2016/1/19(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書24:1-13 賛美 新聖歌35
 24章から27章は諸外国に対する裁きの言葉の締めくくりになる。ダニエル書やヨハネの黙示録のような文書と同様、世の終わりの状況について語られているが、黙示文学(ダニエル書やヨハネの黙示録)のような様々な抽象的なイメージは使われていない。ここでは罪の結果として国々に起こる荒廃がはっきりと伝えられている。人間の文明社会を表している町は破壊され、「混乱の町」(24:10)と呼ばれる。まさに文明の崩壊であり、終焉である。
 罪を犯し続ける人々、町々が滅ぼされるという場面が創世記でのノアの洪水を思わせるような表現でイザヤによって再びこの場で語られている。当時のユダを取り巻く様々な国々が、それぞれの罪のままにふるまっていた。神を畏れない者に与えられる裁きは荒廃と混乱である。それ故に私たちは神のことばに立って立ち帰れと宣言し続けなければならない。

2016/1/20(水) 担当 高谷清師  ?ペテ2:21-25  賛美 新聖歌 270
24節には「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」と語られている。異邦人ピラトもイエスの内に罪を見出すことはできなかった。ピラトは、ユダヤ人たちがイエスを十字架につけるよう求めているのはねたみのためだとわかっていた。しかしピラトは自らの保身のため、イエスを十字架につける判決を下した。主は一切の弁明をせず、十字架についてくださった。ご自分の十字架はご自身の罪のためではなく、私たち全ての人の罪のためであり、御自分の血と命によって全ての人の罪を赦すことこそ、神のみ旨であり、ご計画であることを知っておられたからである。主の流してくださった血によって私たちは、罪に対して死んで、義によって生きるようにされ、いやされたのである。比類なき主の恵みを褒め讃えよう、感謝しょう。

2016/1/21(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書24:14-23 賛美 新聖歌429
 裁きの時の地の荒廃について語られてきた後で、ここからは主への賛美が始まる。14節の賛美は唐突に始まり驚くが、罪人に対する徹底的な裁きが行われる中において、主に従う人々は勝利と喜びの時を迎える17節〜20節で地に住む者たちの現状について再び言及されることによって両者の対照的な姿がさらに印象付けられる。世の終わりの時の裁きという全地に及ぶ荒廃はイザヤによると最後の破滅だけに終わるものではない。その裁きを通って最終的に主に従う者は、主が選ばれた場所で主が支配を確立されるのを見る。主の栄光が彼らに表されるのである。
 裁きは全世界を滅ぼして終わりを告げるためにあるのではなく、最後まで悔い改めない者達を神の主権によって裁き、新しい神の支配を来たらせるために行われるのである。希望に向かうステップである。裁きの後に主の栄光を拝する者でありたい。

16/1/22(金) 担当 高谷清師  詩編10:1-11  賛美 新聖歌 250
 作者は「貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられてその策略に陥ろうとしている」のを見て主に訴えている。神に逆らう者は自分の欲望を誇り、貪欲であり、主をたたえながら、侮っており、高慢で神を求めず何事も神を無視してたくらむ。彼の道はどのようなときにも力をもち、自分に反対する者に自分を誇示し「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで災いに遭うことはない」と心に思う。 口に呪い、詐欺、搾取を満たし、舌に災いと悪を隠している。彼らは茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ貧しい人を網に捕えて引いて行く。彼らの手に陥った人々は心に思う「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。小畑進氏は「貧しい者、悩む者の発する声でありながら、前篇が「国々」つまり外国、外敵の脅威に応じていたのに対して、本篇はむしろ国内、同胞の間に見られる不敬度な者の悪徳行為に応じている」(詩篇講録上P112−113いのちのことば社)と述べている。今日においても詩篇の時代と同じように、主をたたえながら侮り、諂いと偽りに生きる者が栄え、真実に生きようとする者を圧迫し陥れている。しかし主はすべてを見ておられる。

2016/1/23(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ7:24-27 新聖歌316
 これは主が語られた山上の説教と呼ばれる箇所の一部分です。ここで主は私たちの人生の二種類の土台について、譬えを用いて教えておられます。その一つは砂です。この土台は雨が降り、川があふれ、風が吹くと崩れてしまうのです。一方、岩を土台としているなら、たとえ雨が降り、川があふれ、風が吹いても崩れ去ることはありません。
 私たちの生涯において岩を土台とするということは、み言葉を聞いて行うことだと言われます。砂を土台とするということはみ言葉を聞いてもそれを行うことなく忘れてしまい、その代わりに世のもの、すなわち健康、財産、権力、地位などを人生の基礎とすることです。これらはやがて崩れ去るのです。み言葉を聞いたなら、それを心に留めて思いめぐらし、実生活の中で実行していく生活を送りましょう。”,,1366″