2016/1/11-16

2016/1/11 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ2:21-25 賛美 新聖歌 355
 ぺトロは「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」と語る。「あなたがた」とは、第一義的には召使たちを指している。しかし「21-25では、この教えはクリスチャンに普通的に適用することばで表現されている。」(ウェイン・A・グルーデム著ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P142いのちのことば社)。そしてクリスチャンが召された目的は「19−20節の主題、善を行っていて苦しみを受けつつも神に信頼をすることに言及しているに違いない。」(ウェイン・A・グルーデム著ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P142いのちのことば社)。そしてキリストはその生涯によって模範を残されたのである。小畑進は「〈啓示者〉としてのキリストだけの者は頭だけのキリスト者。〈臆罪者〉としてのキリストにとどまる者は心だけのキリスト者。そこへ〈模範者〉としてのキリストをもって、手足の動くキリスト者となりましょう」(小畑進著作集第5巻ペテロの手紙第一講録P236いのちのことば社)と述べている。キリストを知り、贖いの恵みに与った私たちはキリストの足跡を歩む者となろう。

2016/1/12(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書23:1-14 賛美 新聖歌339
 諸外国に対する預言の最後の部分は新共同訳では「ティルスの審判」と題されている。しかしこれは海辺の一つの町ティルスだけにかかわることではなく、そのほかの多くの地中海沿岸の町々に関することばである。これらの町々は貿易によって栄えていた。しかしその国々の誇る美しさや、世界で重んじられていた栄華も万軍の主の定めによって取り去れられる。貿易のために祖国を離れてエジプトに行き、帰ってきた船もその時には母国が滅ぼされ、帰るところを失ったことを知る。休みを得るところをなくした人々は国々を追われ、バビロンやアッシリアへと追われていく。
 目の前に祖国の繁栄を見ている間はこの船に乗る人々は神が語られる裁きを想像できず、受け入れられないであろう。しかし、人の目にゆるぎない繁栄だと見えても、「万軍の主」である神の定めに反して栄え続けることはできない。目に見えて平和と安定を享受しているときにも与えられる神の警告に耳を傾けられる信仰の目を持ちたい。

2016/1/13(水) 担当 高谷清師  ?ペテ2: 2:21-25  賛美 新聖歌 201
 ぺトロは22−25節において、キリストが私たちに残されたクリスチャン生活の模範を詳しく述べる。22節では「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」と述べる。イザヤは「彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。」(イザ 53:9)と述べている。そしてパウロは「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(?テモ2:13)と述べている。世には「嘘も方便」という言葉がある。「生活の手段のためには、丸く収めるためには嘘も容認される」と言う意味であろうか。キリスト教界においてもこの種の事柄がしばしば見られる。しかし、それは神に受け入れられるものではない。わたしたちはどんな時にも神の前に真実な歩みをしょう。

2016/1/14(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書23:15-18 賛美 新聖歌435
 70年の荒廃の後で主が顧みてくださって、回復されるという預言がユダに対してではなく、海沿いの国々、すなわち異邦人に与えられることに戸惑いを覚える。裁きの言葉の後に語られる「その日」(23:15)で始まる言葉は終わりの日の回復を語る。エレミヤ書で語られたユダとエルサレムに対する捕囚後の回復(エレ25:11)を思い起こすこの言葉は、最後の日の回復は世界に及ぶことを教える。かつてソロモンが神殿を建築した時、海辺の国々から神殿建築の資材と技術が提供されたように、終わりの時にはこれらの国々の利益と報酬が「主の聖なるもの」(23:18)となる。驚くべきことである。
 神は諸外国に対して厳しい裁きを宣言された。しかしこれらの国々もイスラエルと同様に神に愛されている。これらの国々でも裁きの後の回復の希望が与えられている。そこには神の限りない愛が表されている。神の救いの希望から除外されていないあらゆる人々、神に背いて歩む民のためにとりなしの祈りをささげ、福音を伝えよう。

2016/1/15(金) 担当 高谷清師  詩編9:14-21  賛美 新聖歌 201
 14-15節において、迫害によって幾度も死に直面する危機の連続の中に在って、信仰によって彼を支え守る確かな御手を確信し、祈りをささげる。主イエスは「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マコ11: 24)と教えておられる。16節において「異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる」と語られている。今週、北朝鮮は水爆の実験に成功したと発表した。互いに相手を滅ぼすために開発・貯蔵競争を繰り広げてきた兵器のは全人類を幾回も滅ぼして余りある量に達したと言われる。20-21節において詩人は「立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。」と詩う。デレク・キドナー師は「人の尊厳は神から派生するものであり、詩篇8・4ー6はそのことを十分に明らかにしている。人は、自分だけではちりであり(創世3・19)、ただの息である(詩篇39:11・144:4)(ティンデル聖書注解詩篇1−72篇P101いのちのことば社)」と述べておられる。私たちの尊厳は神に在ってのみ、意味を持つ。

2016/1/16(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ 6:5-8 賛美 新聖歌 196
 祈りはユダヤ人にとっても大切なものでした。立派な言葉で長く祈ることはその人が熱心な信仰者であることをあらわしていると思われていました。そこで人に見せようと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好みました。このような祈りをする人を主は偽善者と言われました。何故なら、祈りは神との交わりであり、対話であるからです。それは神に向かってなされるべきものであり、人々の賞賛を得ようとして人に見せるためになされるべきものではないからです。主は私たちの祈りについて「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(6節)と言われました。キリスト者にとっても祈りは非常に大切なものです。それはキリスト者の呼吸であり、命であると言われるほどです。それは人からの賞賛を得る為になされてはなりません。真実に、神に向かってなされるべきです。”,,1194″