2016/6/6-11

2016/6/6(月) 担当 高谷清師  ?ペテ4:1  賛美 新聖歌 282
 ぺトロは「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」と語る。キリストの苦しみについてぺトロは「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」(?ペト3:18)と述べた。そして「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。」と勧めるのである。それは「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」(?ペテ3:17)と考えることである。主イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタ10: 28)と教えられた。キリストに従う道は苦難が伴うとしても、命の道である。

2016/5/7(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書40:9-11 賛美 新聖歌19
 主の栄光が再び現れることを宣言し、この喜ばしい知らせをユダの町々に知らせよという指示が与えられる。この知らせを伝えた時に、人々の喜びが裏切られることはない。それはこの良い知らせを伝えよと命じられる神が力ある方であり、確かに統治されるからである(40:10)。私たちは力強く猛々しい神を考える。その直後に主が羊飼いとして群れを養われ、子羊とその母を導く優しい姿が記されている。大きな力を帯びてこられる方がその威厳によって人を圧倒するする強さだけではなく、懐で羊を守るやさしさを持った方である。子羊を抱いて、あらゆる危険から守るための力を備えておられるからこそ、この優しさを与えることができる。
 羊たちを導かれる神は同じようにイスラエルを導かれる。そしてイスラエルを顧みられた神はキリストの血によって贖われて神の子とされた私たちをも本当の強さと優しさをもって導いてくださる。

2016/6/8 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ4:1 賛美 新聖歌 102
 続いて「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」と語る。これについてウェイン・A・グルーデム師は『「善を行って苦しみを受け、しかもその善に伴う苦しみにもかかわらず、なお神に従い続けた人は、罪とはっきりと手を切ってしまったのである」ということを意味する。(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P187いのちのことば社)』と述べておられる。パウロは「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリ 3:8-11)と述べている。更に黙示録は「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(黙 2:10)と述べている。肉に苦しみから逃げず、勝利を得よう。

2016/6/9(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書40:12-26 賛美 新聖歌166
 この箇所を読むと神が創造の業を列挙し、ヨブにそれを説明せよと迫られたヨブ記38-48章を思い出す。主がなさったように世界のすべてを美しく配置し、創造した者は他にない。主のご計画は深く、その知識は豊かである。美しさを誇るレバノンの森も、ユダを苦しめてきた国々や島々も、あらゆる叡智をもって世界を造られた神には全く及ばず、取るに足りない存在である。ただ、神のみが偉大な方である。さらに25⁻26節において、神はご自身を誰と比較しようとしているのかと語られる。つまり、どれほど人々が神を何者かに比較しようとしても、神に並びうるものは存在しないのである。それは神の手の業である被造物に現われている。目を上げて神が創造された世界を見るとき、その美しい世界に顕された神の栄光と力を知る。
 「ほかに神はない」「神に比べ得るものはない」この事実を神が造られた世界を見るときに覚えよう。そして私たち自身も神に造られた存在であることを覚えて主を崇めつつ今日も主に仕えよう。

2016/6/10(金) 担当 高谷清師  詩編21:1-8  新聖歌 373
 詩編20編にはダビデが出陣を前にして献げた祈りとそれを通して与えられた確信が記されていた。そして出陣し、厳しい戦いの末に勝利を得た。王はその勝利を自分の功績とせず、主に帰しているのである。「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い、御救いのゆえに喜び躍る。あなたは王の心の望みをかなえ、唇の願い求めるところを拒まず、彼を迎えて豊かな祝福を与え黄金の冠をその頭におかれた。願いを聞き入れて命を得させ、生涯の日々を世々限りなく加えられた。御救いによって王の栄光は大いなるものになる。あなたは彼に栄えと輝きを賜る。永遠の祝福を授け、御顔を向けられると、彼は喜び祝う。」と。私たちは主に祈り、主がその祈りに応えて勝利を賜った時、その栄光を自分のものとしがちである。ダビデに倣い、常に栄光を主に帰していくものでありたい。

2016/6/4(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハネ9:1-3  賛美 新聖歌 358
 生まれつき目の見えない人に出会ったとき、弟子たちはイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と。人は病気に罹ったり災害に遭遇したりすると、その原因を本人あるいは本人の関係者が罪を犯したためではないかと言い、考えます。しかしイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と言われました。私たちが不幸と思うことであっても、主はそれを通してご自身の権能と栄光を顕されるお方です。”,,1012″