2016/5/30-6/4

2016/5/30 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3:22 賛美 新聖歌 105
 ぺトロは「キリストは、天に上って神の右におられます。」と述べている。これについてウェイン・A・グルーデム師は「古代世界では、王の右に座ることは、その人がその王の権威と権力を行使することを意味した」(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P185いのちのことば社)」と述べておられる。主イエスは大祭司の「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」と言う問いに対して「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」(マタ 26:64)と答えておられる。パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ロマ 8:35-37)と述べている。主イエスを信じる者はキリストによってすべてに勝利しているのである。何者も主にある者を罪に定めることはできないのである。

2016/5/31(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書40:1-7 賛美 新聖歌396
 イザヤ書を読み進めてきて、何度も繰り返し厳しい罪の指摘と裁きが語られているのを聞き続けてきた。36章からはそのような時代にあって神に頼ることを選んだヒゼキヤ王が登場し、希望が見えたように感じたが、このヒゼキヤもまた最後には自己中心にふるまい、主の裁きを聞いた。重く気持ちが沈む中で突然40章において「慰めよ」に始まる全く内容の異なるメッセージに出会う。この赦しと回復のメッセージは何ゆえに与えられたのだろうか。民が悔い改めて神に立ち帰り、信仰を告白したというわけではない。しかし2節によると私たちには知らされていない事実、すなわちエルサレムが苦役を経験して咎の代償を払ったということが考えられる。神は正しいお方であるがゆえに罪を犯すとその責任を問われる。しかし永遠に怒っておられるわけではない。主は赦してくださる方である。そして赦しと同時に回復を与えてくださる。それ故に私たちは神を信頼し、安心して私たちの生涯を神の手にゆだねることができる。神の憐れみによって今日も歩みたい。

2016/6/1(水) 担当 高谷清師  ?ペテ3:22  賛美 新聖歌 19
更にぺトロは「天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。」と述べている。これについてウェイン・A・グルーデム師は「その三つの用語は聖書の他の箇所では善悪両方の霊的存在に適用できる。そしてこの文脈では、特定の限定はないので、それらを宇宙にいる善悪両方のすべての霊的存在への言及として理解するのが最善である。」(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P185ー186いのちのことば社)」と述べておられる。主イエスは弟子たちに「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」(ルカ 10:18-19)と教えておられる。またヨハネは「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(?ヨハ4:4)と述べている。私たちの主、キリストは善悪両方の霊的存在の支配者である。

2016/6/2(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書40:1-7 賛美 新聖歌275
 慰めよという宣言に続いていくつかの呼びかけが語られる。これらの言葉の中で印象的なことは神の圧倒的な主権と力が表されていることである。神の前に荒野に道が備えられ、その道は平らになる。地勢までもが姿を変えて主の栄光が現われるのを待ち望むように呼びかけられる。そして命があり美しく咲き誇る植物も一時のことであり、やがて枯れていく中で永遠に変わらないのは神のことばであると、ここでも神の圧倒的な主権が語られる。そのような神からの宣言が伝令を通してエルサレムとユダの町々に語り伝えられる。大きな力を持って治める神、偉大な神は同時に一人一人を優しく導き、細やかに世話をする羊飼いのように、疲れ果てた民を導いてくださる。
 全地の主権者でありながら、細やかな配慮と愛で導いてくださる神が共に歩み、赦しと回復を与えてくださる。この方に信頼を置こう。

2016/6/3(金) 担当 高谷清師  詩編20:1-10  新聖歌 191
 ダビデは出陣を前にして祈りをささげている。その祈りにおいて確信に導かれたダビデは「今、わたしは知った/主は油注がれた方に勝利を授け/聖なる天から彼に答えて/右の御手による救いの力を示されることを。」と語る。ダビデの祈りは定型文を空しく唱えるような祈りではなく、神に向かって心血を注いだ祈りであり、神の確かな応答を握る祈りである。確信を与えられダビデは「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。彼らは力を失って倒れるが/我らは力に満ちて立ち上がる。」と語る。この時ダビデの心にはかつての日、少年ダビデが完全武装したペリシテ人のプロの戦士に、主のみ名によって立ち向かった時語った「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」(?サム17:47)と語った時の光景がよみがえっていたことであろう。聖書は「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。」(詩127: 1)と述べている。

2016/6/4(土) 担当 高谷清師 ヨハネ6:22-33  賛美 新聖歌 346
 主イエスは大麦のパン五つと魚二匹をもっておおよそ五千人の人々を満腹させる奇跡を行われた。この奇跡に与った群衆は驚いて「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。彼らは翌日も同じ奇跡を求めて主のもとにやってきた。すると主は彼らに食物を与えることはなさらず、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」と教え、真に求めるべきものが何であるかを示された。この教えは今日の教会状況に警鐘を鳴らしているのである。”,,1065″