2017/1/30-2/4

2017/1/30(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1: 35-42  賛美 新聖歌 408
 一夜を主イエスの御許で過ごし、親しく教えを受けたアンデレは、自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った、アンデレは主イエスをメシアと認識したのである。主は宣教の初めにおいて「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ 4:18-19)と語っておられる。ヨハネの二人の弟子たちは聖霊の臨在の中で主イエスから親しく教えを受けたのである。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(?コリ 12: 3)と述べている。御言葉をひもとく時、御言葉を聞くとき、御言葉を語る時、常に聖霊の臨在を求めよう。

2017/1/31(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書63:1-6 賛美 新聖歌358
 61章では解放の日について語られていた。この解放の日は報復の日(63:4)と表裏一体である。神ご自身が歴史の中で直接働き、力ある兵士としてイスラエルを苦しめる諸国を打ち倒して救いを実現すると言われた。捕囚の時代には神は驚くべきことに、異邦人キュロス王を用いてイスラエルを解放してくださったが、神に用いられたキュロスでさえも完全な救いをもたらすことができなかった。人間に望みをおいても完全な解決はありえなかった。なおも救いを求めるイスラエルに対して遂に、神の定めたときが来たら神ご自身が兵士として国々を滅ぼすと約束をしてくださった。長い間完全な救いを待ち続けてもなおそれを見ることができないイスラエルに対して神は終わりの日にはご自身が直接歴史に介入して救いを完成されると語られた。神は人間をも用いて救いの御業を行われるが、完全な救いは神ご自身がこの地に来られ、裁きを行われるときに完成する。それこそがイスラエルの望みであった。

2017/2/1(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:35-42  賛美 新聖歌 434
 アンデレが主イエスを召しあと知った直後に自分の兄弟シモンに会って、主を伝えたことについてジョン・C・ライルは「講檀からキリストが語られるのを聞いたり、書物でキリストについて読むだけでは十分ではない。私たちは、実際にキリストに従って行き、キリストの前に自分の心を注ぎ出し、キリストと個人的交わりをしっかりと保っていなければならない。その時初めて私たちは、他の人々にキリストを語らずにはいられない自分を発見するであろう。(ライル福音書講解ヨハネ1P114聖書図書刊行会1987)」と述べている。エレミヤは「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」(エレ 20:9)と述べている。日々、主との深い交わりに生きよう、そして主の御霊に押し出されて主を語る者となろう。

2017/2/2(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書63:7-14 賛美 新聖歌233
 イスラエルの祈りが始まる。この祈りは嘆きの歌になっている。この祈りの冒頭で民は主が憐れみと豊かな慈しみを与えてくださったことを語る。それと同時に彼らは主に背いたために主が敵となられたことを知っている、その中で民は歴史を遡って神を尋ねる、かつて民を導き出してくださった神を尋ね求めている。彼らはこの神の慈しみのゆえに今再び神に救いを求めている。
 イスラエルが神の憐れみによって導き出されたように、私たちも同じ神の憐れみによって救われた。イスラエルと同様、私たちも変わりなく慈しみ深い神に恵みと解放を求めることができる。常に日々の歩みを省みて、神の憐れみによって生かされていることを感謝しよう。この神の慈しみこそが私たちが大胆に赦しと恵みを求められる根拠である。

2017/2/3(金) 担当 高谷清師  詩編29:10-11  賛美 新聖歌 327
 レバノンの杉の木を砕き、荒れ野をもだえさせ、雌鹿をもだえさせる天変地異を支配しておられるのは、とこしえの王として天地万物を支配される主ご自身である。それ故、ダビデは「どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。」との祈りへと導かれる。パウロは「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:37-39)と述べている。如何なる嵐も主の愛に留まる者を損なうことはできない。

2017/2/4(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 3:20-30 新聖歌 316
イエスが働きを終えて家に帰られると、そこにも恵みを求める人々が集まっており、一同は食事をする暇もないほどに忙しく働いていた。イエスの働きを妬んだある者たちは「あの男は気が変になっている」と言っていた。そのために身内の人たちはイエスを押さえに来た。またエルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこでイエスは譬えをもって話し、ご自身の働きが悪霊によるのではなく、神の霊によることを明らかにされた。そして聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うことを明らかにされた。恵みの時代に生かされている私たちは共に居てくださる聖霊に対しいつも敬虔な態度で仕えましょう。”,,825″