2016/5/23-28

2016/5/23 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3:21 賛美 新聖歌 236
 ノアの時代について創世記は「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(創 6:5-6)と述べている。このような時に神は、神に従う無垢な人・ノアを見出された。神はノアに箱舟を造ることを命じられ、ノアたちが箱舟に入った時、神は地上に雨を降らせ、洪水が起こり、箱舟に入ることを拒んだ人々は水によって滅び果てたのである。しかし箱舟に入った人々は水を通って救われたのであった。私たちがキリストを信じ、信仰に入ろうとするとき洗礼を受ける。その洗礼についてぺトロは「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」と述べている。聖書は「まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(ヘブ 9:14)と述べ、更に「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブ 10:22)と述べている。救いは私たちの功績によって獲得するものではなく神の恵みであり、私たちはそれを信仰によって受けるのである。

2016/5/24(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書39:1-7 賛美 新聖歌232
 ヒゼキヤは度重なるアッシリアという大国からの圧力を信仰によって耐えてきた。危機においてもなお神に信頼し、神の救いを体験してきた。イスラエルにおいて失われていた王の信仰をヒゼキヤは持っており、その信仰のゆえにこの国はアッシリアを前にしてもその苦境において救われた。
 苦難に出会うと人は誰しも正念場に置かれていることを知り、そこを全力で乗り越える。ヒゼキヤも信仰によって乗り越えた。そして克服したときに安堵する。39章はその安堵の時にこそ気を引き締めて歩まねばならないということを私たちに思い起こさせてくれる。信仰の危機を乗り越えた時に、安堵と共に自分は大丈夫という驕り高ぶる思いが忍び寄ってくる。必死に神により頼んでいた信仰が影を潜めてしまう。そのような時こそ、神の恵みによって困難な状況から救われたことを思い起こし、主に従い続けていきたい。

2016/5/25(水) 担当 高谷清師  ?ペテ3:21  賛美 新聖歌 2
 ぺトロは「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」と語る。パウロは「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ロマ 6:3-5)と述べている。洗礼において水に沈められる時、それは肉なる自己に死ぬことを意味し、自ら引き上げられる時、キリストの甦りの命に与って新しい命に生かされることを意味しているのである。パウロが「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(?コリ5:17)と述べているとおりである。新しい、永遠の命の与え主に栄光を帰し、賛美と感謝と喜びに生きよう。

2016/5/26(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書39:1-7 賛美 新聖歌369
 イザヤ書のヒゼキヤに関する出来事を読むときに39章がなければどれほど良いだろうかと感じる。センナケリブの挑戦を受けて以来、ヒゼキヤは徹底的に神に頼るという信仰によって歩んできた理想的な王であった。この最後に失敗した39章がなければ、彼に汚点が付くことがなかった。しかしイザヤ書はヒゼキヤの最後の軽率な行動を包み隠さず語る。あの信仰篤いヒゼキヤでさえ、最後には自分の間違いを自分さえ良ければ他のことは構わないという弱さを表した(39:8)。どれほど立派な信仰を持っていてもはやり一人の人間である限り、自己中心、高慢という心は完全に消え去ることはない。ここに人間の本来の姿が見えている。
 私たちはあの立派なヒゼキヤでさえも完璧に歩めなかったのだから、私のようなものには到底無理な話だとあきらめるのだろうか。そうではなく、あのヒゼキヤでさえも陥った弱さを誰もが持っていることを認め、だからこそ常に神を見上げ、神に頼り、神に導かれる歩みをすることが必要である。日々決意を新たにし、主を見上げて歩みたい。

2016/5/27(金) 担当 高谷清師  詩編19:8-15  新聖歌 316
 雄大な大自然の中に神の御手を見、その中に神メッセージを聞いた詩人は、自分たちに与えられた神のみ言葉に目を向ける。そして、「御言葉は完全で、魂を生き返らせ、真実で、無知な人に知恵を与え、まっすぐで、心に喜びを与え、清らかで、目に光を与える。」と詠う。また詩篇119篇の作者は「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩  119:105)と詠っている。そしてパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(?テモ3:16)と述べている。実に、御言葉はわたしの歩みを照らす灯であり、私たちを義に導くのである。御言葉なくして正しく歩むことは不可能である。御言葉に親しみ、御言葉に従い、正しく歩もう。

2016/5/28(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハネ16:33  賛美 新聖歌251
 イエスはご自分が十字架に懸り世を去る時の近づいたことを知り、世に残される弟子たちが、主の弟子であるが故の苦難に遭遇することを思い、彼らの励ましとなるご自分の勝利を語られた。パウロは「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(?テモ3:12)と述べています。そして?コリ11:23-28に自分の遭遇した数々の苦難を記し、「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:37-39)と記し、キリストにある信仰による勝利を歌い上げています。すべてに勝利された主を見上げ、苦難に立ち向かって歩みましょう。”,,1006″