2016/6/27-7/2

2016/6/14(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書41:21-29 賛美 新聖歌355
 神が法廷で偽りの神々を裁いておられる。神の偶像の神々に対する訴えは大変明瞭である。将来起こることを聞かせなさい、そしてそれを実現しなさいと訴えられる。もちろん偶像の神々はこれに答えることができない。過去を造ってきたのも偶像ではない。創造者ではない偶像の神々は将来を見通すこともできず、将来を創造していくこともできないからだ。しかし神は御心に従って人々を立て、除き、初めの時から告げられてきた神の御心を実現されるのである。
 偶像はいつの時代にもあふれている。そしてそれは常に魅力ある誘惑を伴って人々に迫ってくる。その誘惑にさらされているのはクリスチャンも同じである。言葉巧みに誘惑し、偶像の方が真の神よりも力があるかのように私たちの前に立ちはだかる。しかしこの箇所で明確に示されている様に、真の神に立ち向かいうる偶像はない。心の目を開いて始めから告げていることを成し遂げると断言される神に信頼して従おう。

2016/6/29 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ4:1-6 賛美 新聖歌 390
 人がキリストを知り、信じた時十字架の血潮の恵みにより罪洗われ、聖い者とされます。聖い者とされた者は、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などから離れて行く。酒席から遠ざかり、卑猥な会話に耳をふさぎ、世の仲間との間に距離が生じる。好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などと言ったひどい乱行に加わらなくなる。かつての仲間はそれに驚き不思議に思います。あらゆる手段を使ってかつての乱行に引き戻そうとします。それが無駄だと知ると彼らは救われた者をそしるようになります。仲間はずれにし、いじめの対象にされるかも知れません。あらゆる場面において不利な扱いをしょうとします。それは救われた者が罪の生活から離れることによって彼らの罪を明らかにするからです。しかしペトロは申します「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」と。世が何と言うとしても、最終的に裁くお方は主である。裁きの席において彼らの責任は厳しく問われる。私たちは世に気遣って真理の道からそれてはならない。

2016/6/30(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書42:1-4 賛美 新聖歌341
 「僕の歌」と呼ばれる部分がイザヤ書の中に4カ所ある(49:1-6, 50:3-9, 52:13-53:12)。最初に僕について述べられるこのところでは僕は神が選んだ者で、神の霊によって国々に裁きを導き出す、すなわち正義をもって貧しいものを裁くと言われる。イザヤ書では最初から正義を行う神に従う王が求められてきたが(1:17, 11:1-9)、王は神に背いて正しく民を導くことができなかった。ここで神はご自身が御心に適う王の働きをする者を僕として選ばれると言われる。 神が御自分に背き続けるユダとイスラエルに忍耐強く預言者を送って信頼を求められたが、最終的に民は神に忠実に歩むことができず、滅びを免れることはできなかった。そのような中で正義を行い、貧しい人々に目を留める者は神によって選ばれ、与えられる。そして彼は神の力によってその働きを成し遂げる。
 主に従う、主の御心を行うというとき、私たちは自力でそれに見合う歩みをできないことを痛感する。この僕の上に主の霊が置かれていたように、私たちも神の霊に満たされて、力を与えられて歩ませてくださいと求めよう。

2016/7/1(金) 担当 高谷清師  詩編22:2−6  賛美 新聖歌191
 「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」苦しみの中に在って祈り求め続けるダビデに対して神は頑なに沈黙を守っておられる。そのような神に対してもダビデは背を向けることなく、「だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。」と信仰を告白する。そしてイスラエルの歴史にあらわされた神の救いの御業を数え、「あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」と神の恵みの確かなことを告白する。
 「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」という悲痛な叫びは十字架上において主イエスの口から発せられている。私たちのすべての罪を負って十字架に架かられたイエスに対して神は、主イエスの血が流され尽し、贖いの御業が完成するまではお答えにならなかったのである。パウロは「御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ロマ 1:3-4)と述べている。主が沈黙される時にも主に対する絶対的な信仰を持つことが大切である。また神の答えは贖いも恵みを通してのみ、与えられるのである。

2016/7/2(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 21:12-13  賛美 新聖歌 196
 パウロの伝道の働きの良き協力者であり助け手であったテモテをコリント教会の聖徒たちのもとに遣わすにあたってパウロは、彼らにテモテが心配なく過ごせるよう、世話をするよう、求めている。それはテモテがパウロと同様、主の仕事をしている者だからです。使徒言行録では弟子の数が増えてきたとき、使徒たちは「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」(使6:2-4)と提案し、「一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」(使6:5-6)のであった。こうして主の働きに召された者が祈りと御言葉の奉仕に専念することによって教会は大きく成長していったのでした。私たちも主に召された方々が御言葉の奉仕に専念することが出来るよう、支えていく者となりましょう。”,,1123″