2016/6/20-25

2016/6/20(月) 担当 高谷清師  ?ペテ4:1-6  賛美 新聖歌 384
 「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」と語ったペトロは「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」と言う。これについてウェイン・A・グルーデム師は「もちろん、キリストへの真の回心の一部である罪からの最初の悔い改めも、ある意味で「罪とのかかわりを断つこと」であり「人間の欲望のためではなく、神のみこころのために」生きる決意である。しかし、ペテロはここで、神に従うことは、たとえその代価は肉体の苦しみであるとしても、あの最初の意志の決断よりもさらに強い道徳的な献身を必要とすると述べていると思われる。(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P187−188いのちのことば社)」と述べておられる。山登りにおいて一つの坂を登りつめるとその前には更に高い峰がそびえているように、私たちが主に近づくと更に主の聖さ、偉大さを知らされ、自分の罪深さ、汚れ、弱さを見せつけられる。そしてパウロの「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ7: 24)との告白が自分のものとなるのである。この時、パウロと共に目を上げ、信仰によって贖いの恵みを握り、人間の欲望に従う生涯を棄て、御心に従う生涯へと踏み出すのである。

2016/6/21(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書41:1-7 賛美 新聖歌7
 最初に国々が呼び出される。それはこれから行われる裁判において証人となるためであった。その裁判の中で問われるのは、国々を征服していった強大な東からの国を立ち上がらせたのは誰かという問いかけであった。歴史においてユダを征服した強大なバビロンがペルシャによって倒されるのを人々は見た。そしてそのペルシャの王キュロスを選んで立てたのは神であるとイザヤ書は書いている。この国々への証人としての呼びかけは神によってなされた。そしてこれに対して主なる私であるといわれる神の言葉を認める証言ができるのは歴史においてペルシャが彗星のごとく現れて世界地図を塗り替えたその表面的な事実だけを見た人々ではなく、この背後にあるイスラエルの神の業を認めた人々であった。
 イスラエルの神が働かれたその業を見た人々は、出来事の背後にある神の力をも認めたのである。神を知らない人であっても、創造者なる神が働かれるときに主の御業を認めることは出来るのである。落胆することなく今日も主の業を伝えよう。

2016/6/22 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ4:1-6 賛美 新聖歌 396
 ペトロは2節に「肉における残りの生涯」と記している。この言葉は私たちの肉の生涯は無限ではない、限りあることをあらためて自覚させる。先日、神は三浦綾子記念文学館特別研究員の森下辰衛氏をお送りくださり、姫路三浦綾子読書会を持たせてくださった。そこで取り上げた作品「道ありき」の中に、敗戦による価値観の激変の中で虚無に陥り、荒んだ生活を送る結核患者堀田綾子を、聖い愛をもって愛し救いに導く、自らも結核患者である前川正が、自分の最期の近いことを悟って渾身の力を注いで最後の手紙を書く姿が描かれている。重ねて記すが、私たちの地上の生涯は無限ではない、限りあるものである。そうであるなら、一時も無駄にしてはならないのである。好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにうつつを抜かしてはならない。パウロは「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(?コリ 15: 58)と述べている。今日一日、全力を注いで神の御心を生きよう。

2016/6/23(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書41:8-20 賛美 新聖歌341
 イスラエルに対する神の呼びかけが39章までとは全く違ったものになっている。これまでの罪の指摘や叱責とは違ってイスラエルは神が選んだ者であり、親しい関係にある者として呼びかけられる。さらに神が彼らを決して見捨てないという力強いメッセージも含まれている。もはや彼らは恐れることは無い。それは彼らを贖う神、イスラエルの聖なる方が共にいてくださるからである。神のご性質の故だけではなく、神がイスラエルに対してなさったことの故にもイスラエルは恐れる必要が無い。この神がイスラエルを選び、愛したのである。さらにこれまでの神とイスラエルの関係の上に、未来において神がイスラエルを助け、強くし、不毛な地を再生し、イスラエルがそこで喜ぶ場所と変えられる。
 神が「恐れるな」と語られるとき、そこには確かに頼ることのできる神がおられ、働かれるのである。「恐れるな」という呼びかけを今の私たちも新約聖書を通して受けている。この生ける神からの呼びかけをしっかり握って歩もう。

2016/6/24(金) 担当 高谷清師  詩編22:1  賛美 新聖歌 426
 本詩の表題についてルターは「キリストはあけぼのの牝鹿である。なぜなら、キリストは悩み苦しみ律法をとび越え、罪を根絶し、死に勝ち、新しい世界を昇らせ、恵みと生命と祝福の始まる新しい日をもち来たらせたからである。それゆえこの詩篇がキリストに関連することは、この標題の意図である。ここでキリストはすべての被造物を新たにする創始者であり発頭人である。彼は彼の受苦によってすべての古いものに打ち勝った。このようにして夜が過ぎ去り、あけぼのが始まり、日が出てきた。しかし夜が昼にかわり、晩があけぼのにかわる祝福された交替を、ユダヤ人は今日でもなお知らない。そして彼らがこの預言の成就を聞かないうちに、このことが成就された。それゆえダピデもこの標題で、ユダヤ人の盲目を示そうとしておぼろに説明しようとした。彼らはこれを読んでいたであろうが、正しい教師である聖霊によって、彼らの心の被幕が除かれないなら、彼らはやはり理解できなかったであろう。」と述べている。主イエスは「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ 16:13)と教えられた。約束の聖霊が注がれ、聖霊の光の中で御言葉の心理に導かれている恵みを感謝しょう。

2016/6/25(土) 担当 高谷由紀子師 フィリピ4:6-7  賛美 新聖歌311
 クリスチャンであっても現実の生活の中で様々な困難や苦難に出遭います。しかしそんな時でもクリスチャンは苦難や問題を一人で抱え込んで思い悩むのではなく、神に訴えることができます。実際にこれを書いているパウロも獄中にあって苦難を受けていた時にこのように勧めているのです。私たちが神に訴える時、神は全知全能で愛に満ちたお方ですから、あらゆる人知を超える神の平和をもって私たちを守ってくださいます。この守りは実に神ご自身から来るのです。このことを覚えているなら私たちは安心して神に祈り、近付くことができます。”,,1056″