2013/2/25-3/2

2013/2/25(月) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 35賛美 聖歌273

 「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました」と語る。列王記下 4:8-37にはシュネムの裕福な婦人の物語が記されている。エリシャがシュネムに行った時一人の婦人が彼を引き止め、食事を勧めた。以来彼はそこを通るたびに、立ち寄って食事をするようになった。彼女が夫に「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました」と語っているように、彼女は信仰によってエリシャが神の人であることを悟った。彼女は神の人を、それにふさわしくもてなした。エリシャは「あなたはわたしたちのためにこのように何事にも心を砕いてくれた。あなたのために何をしてあげればよいのだろうか」と問いかける。会話によってエリシャは彼女の必要を知り、子供が与えられる約束をする。その約束は成就し、男の子が与えられた。子供は成長したが、ある日「頭が、頭が」と訴えその日のうちに死んだ。夫人はエリシャのもとに赴き、訴える。エリシャは子供のもとに赴き、祈り、子供は生き返った。この婦人は信仰によって「死んだ身内を生き返らせてもらった」のである。信仰こそ不可能を可能にする。 

2013/2/26(火)担当 高谷満世師 列王記上2:1-11 賛美 聖歌601
 ダビデは死が近づいたとき、ソロモンに戒めを与えた。生涯を閉じるにあたってダビデがソロモンに教えたことは、律法に従って主の掟と戒めと法と定めを守ることであった(2:2)。ダビデの言葉の中で、申命記の教えに立ち返るように言われているのである。神の律法を守り行うならば、王座が守られて祝福を受ける。つまり、神の言葉をないがしろにし、律法を無視するならば、そこには裁きがあるのだ。この言葉を読むときに私たちは申命記28章を思い起こす。神は民の態度がどうであれ、自動的に必ず祝福を与えられるとは約束されていない。神は民に対して律法を守り行うこと、神の道を歩むことを求められたのだ。モーセの時代だけではなく、ダビデの時代にも変わらない要求であった。
 私たちも神の祝福を求めている。祈りにおいて神に嘆願する。しかし、一方では神に服従することを忘れてしまってはいないだろうか。イスラエルとユダの後の時代の王達は、その政治的手腕によってではなく、神に対して従順であったか、つまり、神の道を歩んだかどうかによって評価された。今日のわたしたちも、神は私達の神への服従の姿勢によって評価されるのである。
 

13/2/27 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:35−38 賛美 聖歌475

 信仰について語っている著者は、35節前半までは信仰によって私たちの地上の生活に喜ばしい答えを頂いた人々について語って来た。しかし35節後半からはそうではなかった人々、信仰の故に拷問にかけられ、あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭った人々について語る。このような事例は聖書において、ユダヤ民族の歴史において、また新約時代、教会の歴史において枚挙にいとまがない。35節前半までの人々と同様、35節後半以降の人々もまた信仰のゆえに神に認められた人々である。彼らは共に主から「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」とねぎらわれているのではなかろうか。信仰とは、その結果のこの世の判断基準による善し悪しではなく、神の御言葉に、神のみ旨に、如何に忠実であったか、である。主の御言葉と御旨に忠実に歩もう。 

2013/2/28)担当 高谷満世師 列王記上2:12-46 賛美 聖歌543
 あまりの厳しさに驚き、目を背けたくなる箇所である。神は愛の神ではなかっただろうか?罪を赦し、贖い、救いへと導く神ではなかっただろうか?
 今日の教会において神の愛と慈しみをいつも語り聞かされている私たちにとって、神の厳しさ、悪に対する責任追及というものが非現実的に感じられる。しかし、この箇所において、神はここで取り上げられ死に至った一人ひとりについて、その過去の罪を厳しく裁き、責任を負わされたことが記されている。この箇所を読むときに、私たちは神の厳しさを思い起こす。神に敵対し、本当の悔い改めがないならば、神は罪への報いを求められる。罪を犯しても「どうせ何をやっても神は赦してくださる。『愛』の神だから」と、もし私達が悔い改めの心を持たず、神を侮り続けるならば、必ずその責任を問われるのである。
 神のいつくしみ、哀れみ、そして赦しだけではなく、神の厳しいまなざしも覚えつつ、責任をもって神とともに生きていこう。
 

2013/3/1(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11:35−38 賛美 聖歌295

 今日、信仰について語られる時、その結果が私たちの地上の生活に喜ばしいものであれば「祈りは答えられた」と賞賛され、そうでなければ沈黙に付されることが多いように見受けられるのである。はたして、そうであろうか。今週、私の所属させていただいている教団の教職研修会が開かれ、恵にあずからせていただいた。二年前、同時期に開かれた教職修養会の時には私は神戸市の病院で甲状腺癌の手術を受けていた。開会時刻と手術開始時刻が重なっていたため、冒頭、御集まりになった先生方が祈りをささげてくださった。主にある交わりに心から感謝いたします。もう一人、敬愛する先輩の先生が癌と診断されておられ、同時に祈りがささげられた。それから五日後、私は退院し、今日まで生かされ、この拙文をしたためている。敬愛する先輩の先生はそれからおおよそ二か月後主の御許に召されられた。この先生は、何万という会衆を集め、全世界の注目と称賛をうける存在ではなかったが、素晴らしい信仰の人であった。主の召しに忠実に応え、任じられた教会に誠実に仕えられたのである。今、主のみもとにあって「忠実な良い僕だ。よくやった」とねぎらいを受け、そのご奉仕は主の御前に一段と輝いているのではなかろうか。わたしたちは常に御言葉に、各々の立場にあって忠実に仕える者でありたい。
 
2013/3/2(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書2:1:16-20賛美 聖歌471

 シモンとアンデレは仕事中に呼び出されました。ヤコブとヨハネは仕事の後始末をしている時に呼び出されました。仕事はどうなるのか、家族のことはどうするのか、近所・親戚の付き合いは、将来のことは、山ほどのことが気に懸ります。しかし、問題に一つ一つを後にして彼らはすぐにイエス様に従いました。解決してから従うのではありません。従っていく中で一つ一つ解決されていく喜びを弟子たちは経験しました。主に呼び出されたなら、直ちに従うだけで十分です。全てのことはイエスご自身が責任をもって解決してくださることを信じましょう。