2013/3/4-9

2013/3/4(月) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 35-38賛美 聖歌581

 著者は「更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました」と述べる。エレアザルは旧約時代、聖書が食べることを禁じる穢れた食物、豚肉を食べることを強要された時、それを拒んで神への忠誠を否定するよりは、みずから進んで拷問台に向かい、喜んで死を選んだ(第2マカベア書)。同書にはさらに殉教者の記事が続くが死に際しある者は「宇宙の主はその律法のために死ぬわれわれを永遠のよみがえりへと目覚めさせたもうであろう」と述べたと記されている。日本の歴史においてもキリストに対する信仰を捨てるよう迫られ、それを拒んだ聖徒たちが殉教の死を遂げた。神は「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう黙 2: 10)」と語っておられる。エリシャによって生き返らせてもらったシュネムの裕福な婦人の息子も、主イエスによって生き返らせてもらったラザロも死んだ。しかし最後まで信仰を守り通し、殉教の死を遂げた人々に対して神が約束されているのは、この世の命にまさった永遠の命である。

 
2013/3/5(火)担当 高谷満世師 列王記上3:1-15 賛美 聖歌475
 二章の終わりで、王国がソロモンの手によって揺るぎないものとなったことが報告された後、三章において、神とソロモンとの対話の中で王としてのソロモンが何を神に求めたかが記されている。
 今やソロモンは揺るぎない王国の権威ある王となった。この王が神との対話において自分を「僕」(3:7)と呼んでいる。ダビデが忠実に主の僕として歩んだからこそ神の慈しみを示されたことをソロモンはしっかり見ていた。そしてソロモン自身も、神の前にへりくだって僕として歩むことをまず明言している。そして最初に彼が求めたものは、多くの王権の理想とされる栄光とこの世的な成功としての長寿や富ではなかった。ソロモンは自分の民を支配する力ではなく、神の民を正しく裁く知恵を求めた。
 人間は人の上に立つと自分の権力をふるい、支配したくなる。しかしソロモンは神の主権の元でこの王国を正しく治める王としての権威を求めた。私たちは委ねられた場所で、委ねられたものを神の権威の元におかれたものとして、正しくそれを導こうという謙遜な心を持っているだろうか。
 

13/3/6 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:35−38 賛美 聖歌523

 著者はさらに「他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました」と述べる。この文章から、エレミヤ、イザヤ、ウリヤ、エリヤ、エリシャ、ヨハネの兄弟ヤコブ等の人々を思い起こすであろう。そして「世は彼らにふさわしくなかったのです」と述べる。パウロは「世」について「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊(エフェ2:2)」と述べている。主もまた「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハ 16: 33)」と語っておられる。

  それでは、主は私たちを信仰者たちにふさわしくない、苦難に満ちた世におかれるのであろうか。パウロは「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい(?コリ 6: 20)」と語っている。主が私たちを世におかれたのは神の栄光を現わすためである。

 
2013/2/28)担当 高谷満世師 列王記上3:1-15 賛美 聖歌560
 ソロモンの願いは神の御心にかなうものであった。神はその願いを喜ばれた。それはソロモンが自分の繁栄と成功を求めることなく、神に託された、神の民を治めるという大任を果たすための力を求めたからである。神が探し求めておられたのは、たとえ人がうらやむような地位に着いたときでも、その地位に惑わされることなく、自らを主に仕え、主の前に立ち、へりくだって奉仕する者であった。ソロモンは神の御心にかなったのである。そして、神はソロモンが求めた以上のものを与えられた。知恵に満ちた賢明な心に加えて、富と栄光をも与えられた。それと同時に、ソロモンが父ダビデと同様に神の掟と戒めを守るならば、長寿をも与えられると約束された。
 ソロモンの時代について私たちは繁栄の時代として知っている。また、知恵に満ちた王ソロモンについて私たちは聞いている。その背後にあったのは、ソロモン自身の謙遜と神への信頼と服従であった。神が私たちに今求めておられるのも、ソロモンと同じ信仰である。おかれた場所で主を愛し、へりくだって主に仕えたい。
 

2013/3/8(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 22−38 賛美 聖歌637

 この箇所を長い時間をかけて読んできた。「信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。」と記されているように、信仰は弱い者を強くし、勝利を与え、奇跡的な力をもって危機から信じる者を救うのである。一方、「他の人たちは、釈放を拒み、拷問にかけられ、あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。」とも記している。それは「更にまさったよみがえりに達するため」であった。これらのことを見る時、信仰は肉の目に良しと見えることに導くのみではなく、苦難をも乗り越えて永遠の命に導くものであることが分かる。主が約束してくださった御国を目指して進もう。
 
2013/3/9(土)高谷由紀子師 テモテへの手紙二4:2賛美 聖歌525

 御言葉を伝えるのに好都合な時というのはありません。また、好都合な環境というのもないのです。クリスチャンや伝道者、牧師が御言葉を証し、語るのにあれこれ良い時を模索しているなら、御言葉を伝えることはできません。どんな時にも、いかなる状況にあっても、御言葉を伝えることは救われた者の任務であり使命であることを自覚して、福音宣教に励みましょう。