2016/12/19-24
- 2016.12.19
- ディボーションの友
2016/12/19(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 1: 11-13 賛美 新聖歌 342
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と述べたヨハネは、続いて「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」と述べる。多くの人々が主イエスを拒む中で、彼を信じた人々に対してイエス・キリストは神の子となる資格を与えた。それは血によってではない即ち選民の血筋の故ではない、また肉の欲によってでもない即ちその人自身の心の努力、働き、生来持つ素質・能力等によるのでもない、また人の欲即ち他人の行為、意思、功績、願望、によってでもない、ただ神によって即ち、神の一方的な恩寵によるのである。心からの感謝をささげよう。
2016/12/20(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書58:1-7 賛美 新聖歌77
贖罪日の断食の場面が用いられている。この日に吹き鳴らされる角笛は「国中のすべての住民に」自由を宣告した(レビ25:9)。同じ場面を用いながら、イザヤ書では角笛は罪を告げるためにならされている。神が回復を宣言なさっても、それは民の心が全くつくり変えられて正しいものになったからではない。回復の約束を受けてもなお、民は常にその心の内にある罪を指摘されている。形式上は神に求められる断食やその他の宗教儀式を行っていても、神に向かう心から外に向かって行為として表れてくる実としての正義の行い、人々との関係の中で表れてくる憐れみの行為が見られない。
新共同訳聖書では58章冒頭に「神に従う道」という見出しが付けられている。神に従う道とは儀式的に宗教行事としての断食や祈りや礼拝を演出することではなく、神を愛する心を源泉として湧き上がり、表れてくる愛の行いが見られる生活である。クリスマスのメッセージとして愛を語る者自身が愛の行いを実践し、神に従う者でありたい。
2016/12/21(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 1:14 賛美 新聖歌 209
続いてヨハネは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と語る。これについてM.C.テニイは「彼は見たり、聞いたり、触れたりできる人間の人格によって、御自身をあらわし給うた。ことばは肉と血とをとり、その空間、時間の制約を受け、つかれ、飢え、苦しむ可能性をもつ肉体上の不利な条件を受け給うた。それ故ことばは神にも、また人類にも属する。」(ヨハネによる福音書P65日本基督バプテスト連合宣教団1958)と述べている。それ故、ヘブライ人への手紙は「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(ヘブ5:7)、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ4:15)、「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」(ヘブ5:2)と述べている。私たちの主は真の神にして真の人であられる故、私たちの悲しみと痛みを思いやり、癒すことがおできになるのである。
2016/12/22(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書58:8-14 賛美 新聖歌79
神に従う者に与えられる祝福が列記されている。傷が速やかに癒され、光が輝き、渇きがいやされ、園が潤される。これらは心地よい約束であり、私たちは常に心に留めておきたいと願う。その一方で、この部分だけを覚えて神は無限に祝福を無条件に注いでくださる方だと思ってしまうなら、神を便利屋にしてしまう。これらの祝福には「そうすれば」(58:8)、「〜するなら」(58:9,10)という条件が付いており、私たちが神に喜ばれる歩みを実行することが求められているのである。
神は罪びとである私たちに目を留めて御子をおくって救いの道を開いてくださった。この救いを受けた私たちはこの大きな恵みに目を留めて感謝することができる。この神の愛を受けるだけではなく、実践していくことを主は求めておられる。その時さらに大きな祝福が注がれるのである。愛を受けるにとどまらず、分かち合っていこう。
2016/12/23(金) 担当 高谷清師 詩編28:8-9 賛美 聖歌 165
神は、神に逆らう者、悪を行う者に囲まれ、その圧迫の中に苦しみ祈るダビデの祈りについに応えてくださった。これに際してダビデは「主は油注がれた者の力、その砦、救い。」と詠う。苦難、困難に勝利できたのは自分の努力、自分の力によるのではなく、ただ神によるのであることを告白し、栄光を主に帰しているのである。私たちは自分の直面する危機から首尾よく脱出出来たり、自分の働きが成果を上げたりすると、それは自分の力によると思い違いをして自分に栄光を帰し、傲慢になりやすい弱さを含んでいるのである。この詩篇を深く吟味し常に主に栄光を帰すものとなろう。
2016/12/24(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ8:27-30 新聖歌342
主イエスが弟子たちとフィリポ・カイサリア地方に出かけられる途中で弟子たちに人々が御自分のことをどう理解しているかと聞かれました。弟子たちは人々が主イエスについて語っていることを伝えたところ、主は重ねて「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられました。周りの人々がどう言うかではなく、あなた自身はどうなのかと聞かれたのです。それに対してペトロははっきりと主こそがメシアであると信仰告白をしました。人間的な基準で人々は主が偉大な宗教家、道徳家、指導者だと考えるが、主はそのような基準で評価されるお方ではありません。神から来られた唯一の生ける神の子キリストであり救い主なのです。このことはただ聖霊の働きによってのみ人々が知ることができる真理です。
明日は主の降誕を祝うクリスマスです。世の人々もクリスマス・イブから様々にイベントとして楽しんでいますが、その中にあって「あなたは、メシアです。」という信仰告白をもって心静かに主のご降誕を祝いましょう。”,,950″
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