≪デボーションの友≫2022/5/2-7

2022/5/2(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:10 賛美 聖歌総合版 277 聖歌 296

 パウロは「今私は人に取り入ろうとしているのでしょうか、それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません。」と語る。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「ガラテヤ人たちに親しげな態度を見せたり、さらには媚びへつらったりして、情的・個人的に彼らの心をふたたび自分のもとに繋ぎとめようとする行き方をも断ち切った。おのれ自身を敵対者たちと同列に真理のもとに、神の御言のもとに、同一の審きのもとに引き据えることによって、彼は敵対者との対立の陰にわだかまっている個人的要素をばいわば一万両断のもとに払拭してしまった。こうしていまや彼は、あいつの狙いは〔伝道において〕自分だけが抜け駆けの功名を立てることだ、それで異邦人が喜んでとび付きそうな福音の側面ばかりを押し出して、彼らの重荷たらざるをえない別の面――すなわち律法の諸要求――をわざと告げずに伏せておくのである、といったいまわしい邪推に対して、正々堂々と立ち向かうことができる。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P21ー22 NTD新約聖書註解刊行会1979)

と記している。「キリストの僕」とは、キリストの御心のみを自分の心とする者であって私心をさしはさむことは許されない。キリスト者とは、キリストの僕のことである。

2022/5/3(火) 担当 ラウジー満世師 創世記2:16-17 賛美 聖歌総合版626 聖歌588

 エデンの園に住まわせられた人はそこを耕し、守るという務めを与えられた(2:15)。同時にエデンの園において神は人に、園に置かれている木から自由にとって食べるという自由をも与えられた。さらにもう一つ神が人に与えられたものは禁止であった。エデンの園は人が住まうためにとても良い環境であったが、それは人が何でも思い通りにわがままに生きる場所ではなかった。神に与えられた素晴らしい環境と保護の中でなすべき務めを託され、神から与えられた自由に感謝し喜びながら、神が禁止されることに服して主のもとで生きることが最初から求められていた。

 祝福を喜ぶことは苦労なくできる。しかし神は私たちの必要を満たす奴隷ではない。神は人々が神を信頼して神の命令に―それが禁止であったとしても―神の御心を優先して神に従うことを通して、主との関係の内に生きることを求めておられる。自分の思いではなく主の御心に従おう。

2022/5/4(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:10 聖歌総合版 548  聖歌 526

パウロは「今私は人に取り入ろうとしているのでしょうか、それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません。」と語る。前世紀中葉、世界各地にメガチャーチと呼ばれる巨大教会が出現した。当時の日本の教会の規模はメガチャーチとは比較にならない小さなものであった。日本にやって来たメガチャーチの指導者は「日本の教会の指導者は大衆に向って『あなたがたは罪を犯した。罪を悔い改めて福音を信じなさい』と言うネガティブなメッセージばかり発している。これでは大衆が教会に来るはずがない。癒し、物質的祝福のメッセージを語るべきである。」と語り、大衆迎合を説いた。しかしそれはサタンの得意とするものである。サタンは「イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」(ルカ4:5-6)と語っているとおりである。勿論、サタンも神の支配下にあり、神はサタンをはるかにしのぐ祝福をお与えくださる力をお持ちであり、お与えくださる(マタイ6:25-34参照。)。しかし、キリストのメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マル 1:15)である。

2022/5/5(木)担当 ラウジー満世師 創世記2:18-25  賛美 聖歌総合版627 聖歌589

 エデンの園という完全な環境に置かれて、神の許しの範囲の中で神の言葉に従って生きる人間をご覧になった神は、人が独りでいること、孤独であることは良くないと言われた。まず神は野の獣や空の鳥を造って人に会わせられたが、それらは人に合う、ふさわしい助け手ではなかった。人の必要を満たすために神は新たに女を創造してくださった。孤独に過ごすことが良くないという人間にとって互いにふさわしい相手であって、霊的な交わりを持ち、共に支え合いながら創造者なる神の前に歩む存在が必要とされた。それをご覧になった神は人のためにふさわしい存在を造られた。

 人は独りでいるのは良くない、と神は言われた。生命維持のために必要な環境と食物が整っていれば他の人々との交わりを遮断しても問題ないと考えたくなるほど、時には私たちは人間関係において苦悩する。しかし神は人間を、ふさわしい存在と交わりを持ちながら神の前で生きる者としてくださった。夫婦、兄弟姉妹など、神が私たちの人生においてくださった人々を喜び、心を一つにして主を崇め、敬い、従おう。

2022/5/6(金) 担当 高谷清師 詩 68:5-6  新聖歌 18

 詩人は「神に向かって歌え。/その名をほめ歌え。/雲を駆って進む方をたたえよ。/主の名によって、その前に喜び躍れ。みなしごの父となり/やもめの裁き手となるのは/聖なる住まいにいます神。」と詠い、類なき主を賛美するよう、勧める。それは、「聖なる住まいにいます神」はみなしごの父となり/やもめの裁き手となるお方だからである。イザヤはわれらの主について「見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。/私は彼に私の霊を授け/彼は諸国民に公正をもたらす。彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない。傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず/忠実に公正をもたらす。」(イザ 42:1-3)と語っている。ファリサイ派の人々やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに文句をつけて「なぜ、あなたがたは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか。」と言った時イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ 5:31-32)と答えておられる。ファリサイ派の人々やその律法学者たちが社会の底辺の人々を罪人と呼んで切り捨てて行ったのに対し、イエスは常に彼らを愛し、彼らと共にあって救いに導かれた。それ故、全ての口は神を賛美するのである。

2022/5/7(土) 担当 高谷清師 マタ マタ 6:9 賛美 聖歌総合版 40 聖歌 96

 キリストが教えられた祈りの第一は「御名が聖とされますように」である。教会に受け継がれてきた主の祈りは「み名を崇めさせたまえ」である。これについてヴァルター・リュティは

「キリスト者は次のように信仰を告白することによって、神の御名を聖とすることを許されるのです。『私は光を信じます。キリストが暗闇の中で輝く光であられるからです。私は神を信じます。神がキリストにおいて御言葉を語ってくださったからであり、沈黙なさらないからです。私は愛を信じます。愛は十字架において現わされたからです。』」(主の祈り P21ー22 会社新教出版社2013) と記している。人類によって汚された主のみ名は十字架において聖とされるのである。