2020/1/13-18

 2020/1/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:21-22 賛美 新聖歌 281

 イエスは「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」と語られる。この時の弟子たちは目前に起ころうとしていることを理解していなかった。イエスの話されることから、イエスとの離別の時が近付いていることは理解していたであろう。しかしそれがどのようなかたちで訪れるのか、またそれが何を意味するのかについては何も理解することはできなかった。しかしそれはイエスの十字架と復活と聖霊降臨によって現実となった。則ち、イエスの十字架と死は弟子たちに深い悲しみと絶望をもたらしたが、復活と聖霊降臨は喜びと希望をもたらしたのである。それによってもたらされた喜びは「あなたがたから奪い去る者はいない。」と言われる。パウロは「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)と述べている。
 キリスト者も非キリスト者と同じ悲しみに遭遇する。愛する者との離別、生涯をかけて築いてきた生活の基盤の災害等による喪失等、そのような出来事は私たちを悲嘆と絶望に突き落とす。しかしキリスト者はそこから救い主を仰ぎ見ることが出来る。このお方によってもたらされる喜びは不動のものであり、根底において私たちを支えるのである。
 
2020/1/14(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書3:3-8  賛美 新聖歌427
 預言者は畳みかけるように7つの質問を投げかける。それに対する答えは「いや、そんなことはない」というものである。これらの問いに答えていくことで、応答する者は語り掛ける者の提示する事実に心を合わせていく。ここで問われているのは日常生活の中で人々が経験上知っていた真理であった。これらの自明の事実を重ねた後にアモスは主なる神が語られるときに自分は口を閉ざしていることは不可能であるということを述べる。預言者の言葉を人が好もうと、反発しようと、神から与えられた言葉に権威と力があり、預言者はただそれを伝えるのである。預言者が自分や民にとって都合のよい言葉を神に語らせるのではない。
 どの時代にも人々は神の名において自分にとって有利なこと、利用価値のある内容を聞きたがる。しかし神が語られるのは真理である。「み言葉を聞く」とは自分の思いを横において、神の思いを求めるということである。日々み言葉を味わうときに自己中心ではなく、神を中心として聞こう。
 

2020/1/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:23-24 賛美 新聖歌 165

 イエスは「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」と語られる。パウロは「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ロマ 8:27)と述べている。またヘブライ人への手紙の記者は「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブ 7:25)と述べている。イエスは父なる神によって託された贖いの御業の全てを成し遂げ、天に昇り、父なる神の右の座に着き、約束の聖霊をお遣わしくださった。今、イエスは聖霊によって信じる者と共に居てくださり、信じる者の思いを過眠も御心へと導いてくださる。また、イエスは天において信じる者のために執り成していて下さる。それ故、イエスの御名によって願うことはすべて父に聞き入れられるのである。聖霊による祈りを日々深めよう。神の栄光の為に。喜びで満たされる為に。

 
2020/1/16(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書3:9-11  賛美 新聖歌366
 当時、北イスラエルはヤロブアム2世の統治のもとで経済的に豊かに潤い、繁栄の時代を謳歌していた。一方でその時代の大都市には経済的に豊かになり権力を得ている人とは正反対に弱者として苦しむ人々がおり、彼らは実際に富裕層から踏みつけられていた。神の言葉はその時代に隣の二大国であるシリアとエジプトにこの現状を視察するように呼び掛ける。サマリヤ人が誇っていた豊かな生活とは違って、神が両国に見せられたのは罪と暴力であった。繁栄の裏にある支配者層による弱者への圧政と搾取であった。自己満足に浸る富裕層にとって、神が命じられた弱者への憐れみと愛の行いは完全に忘れ去られていた。しかし神はそのなすべきことを放棄した罪を知り、隣国の人々の手によってサマリヤの包囲と略奪と破壊の裁きを下されるという。
 地上の権力を手にした者は気づかぬうちに心が神から離れ、自分の欲を満たすために神の名を使う。しかし神はあらゆる状況において神の真理を求め、従順に歩むかどうかを見ておられる。私たちは主の名によって自己利益を求めることがないよう、自分の心を吟味しつつ神に喜ばれる歩みを求めていこう。
 
2020/1/17(金) 担当 高谷清師 詩 50:21 賛美 新聖歌 137
 50:16-20において「背く者」に対して語られた神は「お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。」と言われる。人が罪を犯しても、その罪に対して直ちに裁きが臨むことはまれである。それを良いことに人は自分の罪を過小評価し、神を侮るようになる。しかし、パウロは「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(?コリ5:10)と述べており、ヘブライ人への手紙の記者も「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」(ヘブ 9:27)と述べている。更に、ぺトロは「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」(?ペテ4:5)と述べている。人は自らの行動の全てについて神の裁きを受けるのです。あるお方と最近のキリスト者の問題点について話した時、その方は「最近のキリスト者は神に対する畏れが欠けているのではないだろうか」と話しておられた。今を生きる私達が深く顧みるべき指摘ではないだろうか。
 

2020/1/18(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 6:1-6 賛美 新聖歌 408

 イエスの母と兄弟たちが、話したいことがあってイエスのもとにやってきたが、イエスが群集に話しておられたので外に立っていた。これを見た人々がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。するとイエスは弟子たちの方を指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と言われた。キリスト者にとって真の兄弟姉妹とは肉の関係ではなく、信仰により、霊によって結ばれた者である。